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宮城県、牡鹿諸島にある島 ウィキペディアから
牡鹿半島の先端近く、半島の南の沖にあり、旧北上川の河口から南東に約18kmに位置する。同じくらいの大きさの島として、北西近くに田代島、東にやや離れて金華山がある。本土側にある鮎川との関係が強く、1889年の町村制施行以後は同じ自治体(牡鹿町および石巻市)に属してきた。島には、北側の網地と南側の長渡(ふたわたし)の2つの集落があり、昔からライバル意識が強く、現在でもその傾向は幾分残っている[要出典]。田代島と同じく、猫が多く住む島でもある。三陸復興国立公園に指定されている[1]。
砂浜の海水浴場がありマリンレジャーが盛んなことから「東北のハワイ」とも呼ばれる。
島内の網地浜から縄文土器が、長渡浜からは須恵器が出土している。
江戸時代は仙台藩領の一部で、金華山、半島先端部とともに牡鹿郡の浜方十八成組という地区に属し、網地浜、長渡浜という二つの漁村に分けられた。浜は漁村の意で、現代的には網地村・長渡村となるべきところ、当時は浜という単位で呼んでいた。
住民は漁に出るかたわら、畑を作って農業にも従事したが、食糧を自給するには足りず、外から買い入れていたと推定される。それもあって、天保の大飢饉のような時期に食糧の買い入れが途絶すると、悲惨な人口減少をきたした[3]。
また江戸時代には浪入田金山があって採掘された。封内風土記には「流謫罪人之地也」とあり、隣の田代島とともに流刑地でもあった[4]。重罪人が流された江島に対し、網地島と田代島は近流に処せられたものが流された。気候が温暖で地形がなだらか、農業にも漁業にも適した土地であったので、罪人の中には、仙台から妻子を呼び寄せて、そのまま土着した者もいたという。
仙台藩の雑史である世説通記によると1739年(元文4年)6月20日、網地島付近にマーティン・スパンベアが率いるロシア帝国の第2次北太平洋大探検隊が来航し、歴史上初の日露交易が行われた(元文の黒船)[4]。ベーリング海峡の語源となったヴィトゥス・ベーリングが遣わした隊であり、ヨーロッパ大陸からベーリング海峡、千島列島を経て日本との通商ルートを開拓するために来航したものであった。この探検隊は、10日ほどを過ごして付近の水深・緯度を測るための測量などを行った。網地島の白浜海水浴場には、ベーリングの銅像が建立されている。
1979年(昭和54年)、南三陸金華山国定公園に指定され、2015年(平成27年)3月に南三陸金華山国定公園が三陸復興国立公園に編入されたため網地島もそれに伴い指定された。
網地島ラインによる定期船があり、石巻港からは約60分、鮎川港から約20分である。島内では網地と長渡に寄港する。自動車の航送も可能だが予約が必要。なお、田代島と同じ航路であるため、行楽期には石巻港発の1便は満員で乗船できない場合がある[6](但し、臨時便が出ることがある[7]ほか、満員となった場合は2艇同時で運航することもある)。
島内では、トヨタ・ハイエースを使用した路線バスが運行されており、定期船に接続するダイヤが組まれている。運賃は大人200円・子供100円[8]。
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