福岡城
福岡市中央区にある城 ウィキペディアから
福岡市中央区にある城 ウィキペディアから
福岡城(ふくおかじょう)は、福岡県福岡市中央区にかつてあった日本の城。江戸時代初期、関ヶ原の戦いで功績のあった黒田長政が、加増・移封で与えられた筑前国那珂郡[1]警固村福崎の丘陵地に築いた[2]。この際に、黒田氏ゆかりの地である備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地名にちなみ福崎を「福岡」と改め、これが近現代の市名・県名にもなった[3][4][5]。
城郭構造は梯郭式平山城で、明治まで福岡藩黒田氏の居城となった。別名を「舞鶴城」「石城」ともいい、城跡の主要部分は国の史跡に指定され、舞鶴公園と大濠公園となっている。
普請奉行は野口佐助一成である[6]。城地となった警固村福崎は荒れ地で、古くから商人の町として栄えていた博多の西側に川を挟んで位置する[7]。
城跡には現存櫓や移築された櫓や城門、復元された櫓や城門が点在し、南二の丸多聞櫓とそれに続く南二の丸南隅櫓は国の重要文化財に、潮見櫓・大手門(下の橋大手門・渦見門)・祈念櫓・母里太兵衛邸長屋門が福岡県指定文化財に、名島門が福岡市文化財にそれぞれ指定されている。また、南二の丸多聞櫓に続く北隅櫓が復元されている。なお、平和台球場跡から出土した国史跡鴻臚館跡がある三の丸跡は二重に史跡指定されている。このほか本丸御殿、武具櫓、本丸裏御門、太鼓櫓、松ノ木坂御門、大組櫓、向櫓、本丸表御門、追廻橋、鉄物櫓、上之橋御門、上之橋、土塀の木造復元計画もある。
福岡市役所は2014年に『福岡城跡整備基本計画』を策定し、15年間に約70億円を投じることとしている[8]。上に天守閣を建てるための天守台はあり、福岡市は2024年春に仮設した「幻の天守閣」の骨組みを夜間にライトアップするイベントを実施したが、天守閣は築かれなかったという定説のほか、江戸幕府への配慮から早期に取り壊したという説で論争がある[8](「天守台」節で後述)。
毎年春には「福岡城さくらまつり」や「おおほりまつり」が開催され、光雲神社から城跡まで黒田孝高、黒田長政、黒田二十四騎に扮した福岡市長、有名人などの勇壮なパレードも行われる。二の丸の鴻臚館広場にて演武なども行われる[9]。
1600年(慶長5年):黒田孝高・長政父子は関ヶ原の戦いの功績により豊前国中津16万石から、筑前一国52万3千石で筑前名島に入封した。筑前の旧領主小早川秀秋の居城であった名島城[10]に入城した。便宜上から名島城を廃し、福崎丘陵を新城地に選定した。1601年(慶長6年)には築城が開始され、7年後の1607年(慶長12年)に竣工した。
江戸期には歴代の藩主により二の丸御殿や西の丸御殿の増築など数度の改修が行われたが、特に幕末の嘉永・万延年間に、第11代藩主黒田長溥により大改修が行われた。
梯郭式の平山城で、本丸の南西に南丸(南二の丸)、北東隅に同じような規模で東二の丸、この2つを結ぶようにして囲む二の丸、二の丸の西から北東に三の丸が囲む配置であった。建物は47基の櫓や10棟の城門を配し、縄張りの範囲は約24万平方メートルにおよぶ[12]。東側に那珂川をもって堀とし高石垣を南北に長く築き、また西側は干潟の「草ヶ江」を大きな池沼堀として活用した。城下町は城の北側(博多湾側)に東西に長く開かれた。
福岡市は2013年(平成25年)、舞鶴公園と大濠公園の周辺をセントラルパークのように大規模な公園とする『福岡セントラルパーク構想』を発表した。本丸・二の丸・三の丸は20年から30年の長期計画で城跡の復元整備を行っていく予定としている。
本丸にあった建造物の中で資料が多く残されている本丸表御門・太鼓櫓・武具櫓・本丸裏御門・本丸御殿について福岡市は「調査検討を行った上で、復元整備対象とする」とし、特に本丸表御門と太鼓櫓については「復元の可能性が高い」としている[13]。
二の丸にあった建造物の中で、資料が多く残されている東御門、革櫓、大組櫓、鉄物櫓、炭櫓、松木坂御門、向櫓について福岡市は「調査検討を行った上で、復元整備対象とする」としている[13]。 枡形の平面形状であった松木坂御門周辺の石垣や、戦後の造成によりほとんどが失われた二の丸御殿南側の石垣についても復元が検討されている[13]。
失われた二の丸御殿南側の石垣の復元が、2021年時点で開始されている。
三ノ丸は、北側を土塁と堀で囲まれ、御下屋敷と有力家臣の屋敷が立ち並んでいた。北東に上之橋御門、北西に下之橋御門、南西搦手側に追廻橋門が設けられ、下之橋御門の南側には、黒田孝高の隠居所である御鷹屋敷があった。
1671年(寛文11年)に御下屋敷が北側に移転し、以降は藩主の館および藩政の中心となった。寛文期の御下屋敷は1763年(宝暦13年)に焼失し、翌年規模を縮小し再建された。1769年(明和6年)には7代藩主治之を江戸から迎えるために建て替えられた。御下屋敷は福岡県庁として使用されたが、1876年(明治9年)に県庁の天神町への移転に伴い解体された。
以降は陸軍の軍用地となった。第二次世界大戦後は平和台球場や平和台陸上競技場など多くの公共施設が建設されたほか、一部は城内住宅と呼ばれる宅地となった。平成以降、城跡として整備が進められ、戦後建てられた各種施設の移転が進められている。
江戸期の遺構として堀、土塁、上之橋御門の枡形、下之橋御門が残るほか、城下から旧母里太兵衛邸長屋門と名島門が移築されている。
三の丸にあった建造物の中で、資料が多く残されている上之橋御門、潮見櫓、花見櫓、御下屋敷について福岡市は「調査検討を行った上で、復元整備対象とする」とし、特に上之橋御門・潮見櫓・花見櫓については「復元の可能性が高い」としている[13]。また重臣屋敷跡についても、舗装等により地割を表現する整備を行うとしている[13]。
2014年(平成26年)、旧舞鶴中学校の建物を利用して、公園計画を展示する施設「福岡城・鴻臚館案内処・三の丸スクエア」が開館した。
2023年(令和5年)に、福岡県と福岡市が進める「セントラルパーク構想」の一環として、名島門から、三ノ丸広場に沿っての園路の再整備と舗装工事が行われた。隣接する大濠公園との回遊性を高めるのが狙いである。また、福岡城跡の他の園路も、舗装工事や足元を照らすための電灯の新設などが行われている[20]。
城郭の北側には、一部が埋めたてられたものの、大半の堀が残っており、東から順に1号堀[注釈 2]、2号堀[注釈 3]、3号堀[注釈 4]、4号堀[注釈 5]及び5号堀[注釈 6]と呼ばれている。また、南西側にも一部の堀が残っており、6号堀[注釈 7]と呼ばれている。水面には、ハスやスイレン等が繁殖している。なお、城郭の東側と南側にあった堀は、幅員が1メートル程度の水路として残っている。
古くは草ヶ江と呼ばれた博多湾の入江であり、福岡城築造に際して黒田長政が入江の一部を埋め、南の入江は福岡城の外濠である大堀とした。大堀の跡には1929年(昭和4年)に大濠公園が開園した。
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