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1896-1975, 洋画家 ウィキペディアから
林 武(はやし たけし、1896年〈明治29年〉12月10日 - 1975年〈昭和50年〉6月23日)は、日本の洋画家。本名は
東京都出身。大正末期から画家として活動を始め戦後には原色を多用し絵具を盛り上げた手法で女性や花、風景などを描き人気を得た。晩年には国語問題審議会の会長も務めている。元衆議院議員の林潤は孫。
1896年(明治29年)12月10日、東京市麹町区上二番町十五番地に6人兄弟の末子として生まれる。父・
1921年(大正10年)、第9回二科展にて「婦人像」が初入選し、樗牛賞を受ける[1][2]。この年、渡辺幹子と結婚する[1]。1923年に関東大震災で被災して神戸に移住する。1930年(昭和5年)には二科会を脱退して独立美術協会の創立に参加[1][2]。1934年3月に渡欧。フランス(パリ)・ベルギー・オランダ・イギリス・ドイツ・スペインを訪れる。ここでの作品は1937年7月、松坂屋での滞欧作展で展示された。1935年には東京に戻り、中野区新井町に居を構える。1944年、持病の胃潰瘍が悪化、静養をかねて西多摩郡網代村に疎開。2年間を過ごす。
戦後の1948年(昭和23年)以降、坂上星女をモデルにした連作を描き始める。1949年(昭和24年)、「梳る女」をはじめとする画業で第1回毎日美術賞を受賞[1]。1952年(昭和27年)、安井曾太郎、梅原龍三郎の後任として東京芸術大学教授に就任[1]。翌年、風景に題材を求めて十和田に滞在し、「十和田湖」の5点の連作を生む。1956年、「伏目の女」で現代日本美術展大衆賞を受ける。1958年、日本橋髙島屋において180点出品の大規模な回顧展を開く。1960年5月に渡仏、「薔薇」「ノートルダム」「エッフェル塔」など23点を制作し、翌年9月、髙島屋において滞欧作展開催。同年には美術出版社よりそれまでの自身の画業を集大成した画集が出版される。
1963年12月、東京芸術大学教授を定年退職し、牛島憲之に教授職を託すとともに、渋谷区に居を移す。1965年、自身の生い立ちと芸術論を述べた初めての著書『美に生きる:私の体験的絵画論』を講談社より出版。1967年1月には第37回朝日賞を受賞し、同年11月には文化勲章を受章[1]。1971年、国語問題協議会会長に就任し、正かなづかいの復権を訴えた著書『国語の建設』を講談社より出版した。
1975年3月29日に慈恵会医科大学付属病院に入院[1]。6月23日、肝臓癌のため79歳で死去[1]。病床で描いた「薔薇」が絶筆となった。贈従三位(没時叙位)[1]。6月28日、野口弥太郎が葬儀委員長を務め青山葬儀所において葬儀が営まれた(独立美術協会葬)[1]。
武の絵画には岸田劉生、セザンヌ、モディリアーニ、ピカソ、マティス、ビュフェなどの影響を見てとることができる。
初期の作品は絵具を薄く塗る傾向が強かったが、戦後になってからは絵具を盛り上げて原色を多用するようになった。
サインは「Takeshi・H」もしくは「Take・H」と記すことが多い。
武が戦後に獲得した絢爛豪華な作風は多くのファン層を取りこみ、おりしも1950年代から60年代にかけて起こった投機的絵画ブームにも乗り、一時期は号あたり20万円という高値で取引されるようにもなった。
武が晩年に多く描いた薔薇や富士山の絵画は今もって市場では人気が高いが、一方で武の代表作とみなされる「梳る女」(1949年)や「静物」(1948年)などが描かれた1940年代から50年代にかけての時期が武の黄金期であったとする見方も多い。
制作にのめり込むと3日も徹夜で書き続けることもあり、モデルが立っていられなくなることも度々あった[3]。
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