奥谷博

1934-, 洋画家 ウィキペディアから

奥谷博

奥谷 博(おくたに ひろし、1934年8月12日 - )は、日本洋画家勲等文化勲章日本芸術院会員文化功労者

概要 文化勲章 奥谷 博, 生誕 ...

奥谷 博
奥谷 博
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文化勲章受章に際して
公表された肖像写真
生誕 奥谷 博
(1934-08-12) 1934年8月12日(90歳)
高知県幡多郡宿毛町
国籍 日本
出身校 東京芸術大学美術学部卒業
東京芸術大学美術学部
専攻科修了
著名な実績 洋画
受賞 大橋賞(1963年
独立展奨励賞1964年
独立賞1965年
須田賞(1965年)
昭和会賞1966年
芸術選奨
文部大臣賞
1983年
宮本三郎記念賞1984年
安田火災東郷青児美術館
大賞
1995年
日本芸術院賞1996年
選出 日本芸術院会員
民族 日本人
活動期間 1959年 -
影響を受けた
芸術家
林武
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愛知県立芸術大学美術学部講師、愛知県立芸術大学美術学部助教授東京芸術大学美術学部客員教授などを歴任した。

人物

高知県出身の洋画家である。独立美術協会に所属し[1]神奈川県三浦郡葉山町に居住している[2]愛知県立芸術大学では講師を経て助教授を務め、東京芸術大学では客員教授を務めるなど、後進の育成にも力を注いだ。1996年には日本芸術院会員に選出されている[3][4]2007年には文化功労者として顕彰された[3][4]2017年には文化勲章を受章した[5]

来歴

1934年高知県幡多郡宿毛町(現在の宿毛市)に生まれる [4][6]。1955年東京芸術大学美術学部油絵科に入学し、1959年卒業する [3][6]。1963年東京芸術大学美術学部専攻科を修了、大橋賞を受賞する[3][6]。この間、油絵科4年に進級して林武に師事するとともに、専攻科進学後も林武教室に籍を置く[4]。1966年4月には、伊藤簾教授の推挙により開学したばかりの愛知県立芸術大学美術学部の専任講師になる[4]。また10月には独立美術協会の会員となる [3][6]。1967年には、文部省が創設した芸術家在外研修制度 (現在の文化庁新進芸術家海外留学制度) による第1回在外研修員として、フランスに1年間留学する [3][6]。1969年4月に愛知県立芸術大学助教授となるが、翌年3月に退職して創作活動に邁進する [3][6]。1971年5月に再び渡仏し、1973年11月帰国する[3][6]。2001年4月に東京芸術大学美術学部客員教授 (2004年3月まで) となる [3][6]。2007年1月には宿毛市名誉市民となる[4]

家族・親族

洋画家で独立美術協会会員の奥谷太一は、奥谷博の長男である[7][8]

年表

賞歴

栄典

主な個展歴

主な美術館所蔵作品

  • 『画家と鴉』(1974年、高知県立美術館)[16]
  • 『閉ざされた風景のある静物』(1974年、刈谷市美術館)[17]
  • 『足摺遠雷』(1981年、神奈川県立美術館)[18]
  • 『詩海』(1983年、三重県立美術館)[19]
  • 『鱪と針千本』(1991年、メナード美術館[20]
  • 『風生』(1991年、笠間日動美術館)[21]

主な著書・画集

  • 1992年『奥谷博画集』が求龍堂から刊行される [3][6]
  • 1999年『奥谷博 作品1952-1999』が日動出版により刊行される [3][6]
  • 2015年『奥谷博 Ⅱ 作品1999-2015』が日動出版部により刊行される[13]

脚注

関連人物

関連項目

外部リンク

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