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1904-1970, 洋画家 ウィキペディアから
海老原 喜之助(えびはら きのすけ 1904年9月13日 - 1970年9月19日)は、日本の洋画家。鹿児島県出身。大正末期から昭和にかけてフランスと日本で活躍。「エビハラ・ブルー」と呼ばれた鮮やかな青の色彩を多用し、馬をモチーフとした作品を数多く制作した。1970年にパリで客死。今では郷里の鹿児島市立美術館、児玉美術館をはじめとする各地の美術館に作品が収蔵されている。
鹿児島県鹿児島市に生まれる。県立志布志中を卒業後、上京してアテネ・フランセでフランス語を学びながら有島生馬[1]に師事するかたわら川端画学校でも絵画を学び『自画像』を制作した。1923年(大正12年)に19歳で単身渡仏し、パリで活動をしていた藤田嗣治に師事。同地から出品した作品が第10回二科展に初入選し、翌年にはサロン・ドートンヌに初入選を果たす。
1927年(昭和2年)にフランスの画商、アンリ・ピエール・ロシェと契約し、『窓(カンヌ)』『姉妹ねむる』『サーカス』を制作。翌年にはニューヨークで初めての個展を開き、サロン・ド・レスカリエにも招待されるが、この頃からフランドル絵画に影響された、青を基調とする雪景の連作を描きはじめる。ベルギー人のアリス・エロジー・ベッケと結婚し、息子二人をもうけるも1933年に離婚し、子供を引き取る[2]。1934年(昭和9年)に帰国して日本で初個展を開催し、翌年には独立美術協会会員に迎えられる。同協会の主催する独立展に出品を続けながら戦争画も手がけ、1940年(昭和15年)には日本大学専門部芸術科美術科(現日本大学藝術学部)の講師となる。同年に再婚し、自由が丘に転居[2]。1943年に日大講師を辞して1945年6月に熊本県水俣市に疎開、そこで終戦を迎えた後、洋画家の宮崎精一を頼り人吉市に移るが暫くは絵筆を折った。
1950年(昭和25年)に第1回南日本文化賞に受賞して後に熊本市へ移転、翌年には海老原美術研究所(エビ研)を創立すると同時に第3回読売アンデパンダン展に『スタート』『殉教者』を出品して画業を再開した。その後は九州を本拠に創作活動を続けるものの、1966年(昭和41年)から断続的に渡仏。1968年(昭和43年)に藤田が死去した際には彼の葬式を取り仕切り、その後はヨーロッパのロマネスク美術を訪ね歩きながら創作活動を継続。『水より上る』を制作し帰国を目前とした1970年(昭和45年)9月19日に、癌のためパリで死去。行年66歳。熊本の小峰墓地にも墓がある。二児はそれぞれ写真家と画廊経営者となり、孫が姫路市で海老原喜之助オフィシャルギャラリーを経営している(2023年現在閉店を確認)[3]。
海老原は画家を志したころから晩年まで、藤田嗣治を師と仰いだが、海老原の作品には藤田との直接的な類似点はみられず、むしろアンリ・ルソーなどからの影響が感じられる。
19歳のときパリへ留学したが、そのころから、海老原のトレードマークとなる青を基調とした作品を数多く描いた。この傾向は晩年に至るまで続いたが、戦後に描かれた作品では、パリ時代のものと比べてより原色に近い鮮やかな青を用いている。これは、パリ時代に描かれた雪景の青と、戦後の『船を造る人』の空の青を比較してみると判別できる。また、海老原は馬好きとしても知られ、最晩年まで終生馬をモチーフにした作品を描き続けた。
戦後は、『燃える』や『蝶』で多数の色彩をモザイク状に配置するなど、抽象的な画面構成を用いるようになり、晩年には、より単純化された空間構成と色彩の配置による表現を試みている。
(現在すべて絶版。)
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