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板倉 勝清(いたくら かつきよ)は、江戸時代中期の大名・老中。始め15000石。陸奥国泉藩2代藩主、遠江国相良藩主、上野国安中藩主。官位は従四位下・佐渡守、侍従。重形系板倉家3代。
板倉重同の長男。
幕府では長年若年寄を勤め、泉から相良、さらに安中とめまぐるしく増転封を繰り返す。延享4年(1747年)には分家の旗本7000石板倉勝該が勝清を殺害しようとして誤って肥後国熊本藩主細川宗孝を殺害するという事件が発生した。本家筋にあたる勝清が素行不良の勝該を廃嫡しようとしたところ逆上しての事件といわれる(本分家の諍いでなく「元々板倉勝該は、細川宗孝が標的だった」とする異説もある[2])。
寺社奉行、若年寄、側用人、西丸老中を経て、明和6年(1769年)には本丸老中に起用される。安永9年(1780年)まで務め、在職のまま没した。跡は長男・勝暁が継いだ。
父母
正室
子女
養女
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