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2024年(令和6年)現在、宮島口-宮島間の主要な航路としては以下の2路線が就航している。いずれも広島県道43号厳島公園線の一部をなしている。
このほか、瀬戸内シーラインが運航する広島港発グランドプリンスホテル広島前経由の「広島・元宇品〜宮島航路」や、アクアネット広島が運航する原爆ドーム近くの元安桟橋間を結ぶ「世界遺産航路」などもある。
利用者数の詳細は、「宮島桟橋#利用状況」を確認のこと。
江戸時代より、廿日市や地御前から出航する渡海船および番船が、宮島や能美島に就航していた。
1877年(明治10年)、当時の国道が海沿いにルート変更し参拝者が増加。翌1878年(明治11年)8月に渡船業者の届け出が義務化された。1888年(明治21年)には業者間の申し合い規約書が定められた。
1891年(明治24年)時点で、地御前村阿品(現・廿日市市阿品)には十数隻の渡海船が就航していた。当時の運賃は、水夫1人の場合1人6銭・2人8銭・3人9銭。以降、乗客が1人増えるごとに1銭増加。水夫が1人増えるごとに5銭追加していた。しかし、業者間の競争によって申し合いはあまり守られていなかった。
1894年(明治27年)、再度申し合い規約書が同業者一同78人で記名調印した。同年には宮内村(現・廿日市市宮内)にも業者が存在していた。
同年、広島市西本川(現・広島市中区中島町)の汽船問屋、石井久平が小型の蒸気船長安丸を購入。宇品・廿日市・宮島・呉間に就航したが、1896年(明治29年)8月に寄港が途絶気味になり、廃止になった模様である。
1897年(明治30年)9月25日、山陽鉄道の延伸にあわせて広島市在住の実業家、早速勝三[1]が、赤崎海岸に桟橋を設置。宮島間の航路を就航した[2]。後に町有志の事業になり、山陽鉄道が買収。その山陽鉄道が国に買収されたことで、国の航路になった。これが現在の宮島連絡船のルーツになっている。
一方で1925年(大正14年)7月には、広島電鉄の前身の広島瓦斯電軌が、宮島線を地御前駅まで開業。駅から桟橋までは自動車で連絡し、新宮島桟橋(現在の西広島バイパス高架合流付近)から宮島桟橋間の「新宮島連絡船」を就航させた。翌1926年(大正15年)に宮島線は新宮島駅まで開業し、自動車による連絡は解消されたが、1931年(昭和6年)の宮島線の電車宮島駅(現・広電宮島口駅)開業で航路は廃止された。
1939年(昭和14年)には「合資会社松大航運社」が設立。1957年(昭和32年)に「宮島松大観光船有限会社」に組織変更され、翌1958年(昭和33年)に広島電鉄の資本参加を受けた。これが現在の宮島松大汽船のルーツになっている。
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