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1932-, 女優。 ウィキペディアから
東京市の文房具屋(事務用品の販売・卸会社の株式会社チカダ)の娘として生まれる。兄がいたが戦死した。1949年、高等女学校生の時に新東宝撮影所に見学に行った際に、製作主任の大村完三に勧められ、学校を中退して総芸プロに入り女優となる。翌1950年1月、東宝へ移籍する。1953年、杉江敏男監督に抜擢され、『逃亡地帯』に主演の三國連太郎の情婦役を演じる。この作品から本名の好子から北川町子へ改名した。以降、妖艶な顔立ちを生かした役柄をこなし、東宝の中堅女優として活躍した。
1964年に同じ東宝の俳優だった児玉清と結婚(児玉は北川家に婿入り)、ほどなくして女優業を引退した。一男一女を授かった。息子は北川大祐で、一時期、児玉大輔や北川大輔、本名でタレントとして活動していたが、後に引退して会社員をしている。娘は夫の死去まで、マネージャーを務めていた。
夫児玉清は、著書『負けるのは美しく』(集英社、2005年)の「見エザル神ノ手」の章で、結婚に至った経緯を回想し知り合ったのは1964年のテレビドラマ『サラリーマン義経君奮戦記』の京都ロケへ向かう車中であった。(1960年「夜の流れ」プールのシーンで共演があるので「個人的に話したのは」という意味だと思われる)東宝撮影所演技課から京都に一人で行けない女優がいるので一緒に行ってほしいと頼まれ、やむなく引き受けたところ、スクリーンで知っている「コケティッシュでちょっと姉御肌の伝法な女性」という印象と全く違って、真面目で控えめで感じがよく、相性がいいのか居心地よく感じたという。その4ヵ月後に結婚することになるのだが、父親を数年前に亡くして母親と2人暮らしだった北川とのデートは、いつも母親か叔母との3人だったという。なお、北川の児玉清の第一印象は、「なんておしゃべりな人なんだろう」だった。結婚後、女優を辞めるに際しては、当時は中堅女優と売れていない俳優との組み合わせだったために、会社からばかりではなく俳優仲間からも惜しまれたという。中でも女優の賀原夏子からは児玉に「私の大好きな女優の一人だったのよ。やめちゃうなんて本当に残念だわ。彼女が復帰する気持ちになったら、真っ先に私に知らせてね。残念、残念だわ」と言われて複雑な心境になったという。
1957年(昭和32年)12月31日、東宝サンパウロ支社開設のため、同じ東宝の女優だった河内桃子らとブラジルへ出発。帰りにアメリカのニューヨークへ立ち寄り、第2回日本映画見本市に参加し、1958年(昭和33年)2月12日、日本に帰国した。当時はまだ海外渡航自由化の前で、大変貴重なサンパウロ&ニューヨーク訪問となった。
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