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ミッシェル・ポルナレフ(Michel Polnareff, 1944年7月3日 - )はフランスの歌手、シンガーソングライター、コンポーザー。フランス共和国ロット=エ=ガロンヌ県ネラック出身。フランスでは国民的歌手としての人気があり、日本でも「シェリーに口づけ(Tout, tout pour ma chérie)」、「愛の休日(Holidays)」「愛のコレクション(Qui a tué grand' maman ?)」「愛の願い(Love Me Please Love Me)」「哀しみの終わる時(Ça n'arrive qu'aux autres)」「愛の伝説(I love you because)」「悲しきマリー(J'ai du chagrin Marie)」「悲しみのロマンス(La Vie, la vie m'a quitté)」「渚の想い出(Tous les bateaux, tous les oiseaux)」「火の玉ロック(Great Balls Of Fire)」などのヒット曲で知られている。シングル以外では「ラース家の舞踏会(Le Bal des Laze)」「ロミオとジュリエット(Comme Juliette & Romeo)」なども人気曲である。70年代前半の日本で、非常に高い人気を誇った。
Michel Polnareff ミッシェル・ポルナレフ | |
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2007年、パレ・オムニスポール・ド・パリ・ベルシー | |
基本情報 | |
出生名 | Michel Polnareff |
生誕 | 1944年7月3日(80歳) |
出身地 | フランス国・ロット=エ=ガロンヌ県ネラック |
学歴 | コンセルヴァトワール(パリ音楽院) |
ジャンル | フレンチ・ポップス、フォーク・ロック、ポピュラーミュージック、ロック |
職業 | シンガーソングライター、コンポーザー |
担当楽器 | キーボード、ピアノ、ギター |
活動期間 | 1966年(シンガーソングライター)、(コンポーザー)- |
レーベル |
フランス・Disc AZ 日本・テイチク、日本コロムビア、CBSソニー、エピックソニー、ユニバーサルミュージック |
共同作業者 | ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、ビッグ・ジム・サリバン |
公式サイト | polnaweb |
名前の発音はフランス語では「ミシェル」に近いが、日本では長年「ミッシェル」とのクレジットが慣例になっているため、当記事ではこれに倣う。
7月3日、第二次世界大戦の最中、両親の疎開先だった南仏のネラックで生まれる。父親のレイブ・ポルナレフ(Leib Polnareff, ウクライナ語表記は Лейб Польнарев, 1899-1975)はウクライナ南西部のオデッサ(旧ロシア帝国)出身のユダヤ系ウクライナ人の音楽家で、1923年にフランスに移住した。『レオ・ポル』という変名にてエディット・ピアフやイヴ・モンタン、ジョルジュ・ゲタリ、ダニエル・ダリューに楽曲提供していた作曲家[1]で、ジャズ・ピアニストでもあった。母親のシモーヌ・ラーヌはフランス人のダンサーだった。異母兄にブルガリアの科学者・ボリス・ポルナレフ (Boris Polnarev, 1924-2013) がいる。
1949年コンセルヴァトワール(パリ音楽院)に入学。ピアノやソルフェージュを学び始める。両親は息子をクラシックの演奏家にさせるため、徹底した英才教育を施そうとした。1956年ソルフェージュで優勝した。この頃にエルヴィス・プレスリーの歌を聞いてロックンロールを知り、クラシック音楽への情熱を次第に失っていく。
1963年兵役でモリュソンに赴任。不適格な人間として6ヶ月後に退役させられる。その後に保険会社に就職する。 1964年上司と衝突して保険会社を退職。クラシック音楽の道への復帰を強要する両親と仲違いし、ギターを手に家出をし、モンマルトルでヒッピー生活を始める。
1965年レコード会社「Disc'AZ」およびラジオ局「Europe 1」のディレクターであるルシアン・モーリス[2]に出会い、レコード・デビューをめざした。
アマチュア・ロックのコンテスト「ロコモティヴ」に参加して優勝をする。優勝者はロッカーズというレコード会社と契約できて、レコード・デビューできるというものであったが、ポルナレフは既にルシアン・モーリスと契約をしていたので、それを辞退した。ルシアン・モーリスはポルナレフのデビューにあたり、ロシア人やウクライナ人を連想させるポルナレフという名前ではなく、イギリス人のような名前の芸名を考えていたが、ポルナレフはそれを拒否して、本名でデビューすることになった。
ロンドンにて「ノンノン人形(La poupée qui fait non)」、「悲しきマリー」など5曲をレコーディング。ギターにはジミー・ペイジ、ベースにはジョン・ポール・ジョーンズ(後に共にレッド・ツェッペリンのメンバー)、ビッグ・ジム・サリヴァンが参加した。[3]
5月、4曲入りEP「ノンノン人形」がDisc'AZより発売されてデビューする。15万枚を売る大ヒットとなった[4]。6月には続く3曲入りEP「愛の願い(Love me, please love me)」も大ヒットし、一躍スターダムに上り詰める。8月には、アンチープ・フェスティヴァルで「愛の願い」を歌って評論家賞を受賞。当時のフランスの首相・ジョルジュ・ポンピドゥー(後に大統領)は、「時代の流れだ。私は今日、新しい歌手の存在を知った」と賛辞の言葉を贈った。
10月、日本でテイチクよりシングル「ノンノン人形」が発売される。
11月、フランスでファースト・アルバム『Love Me, Please Love Me』を発表した[5]。英語の作詞でプロコル・ハルムのキース・レイドが参加している。当時は旧来のシャンソンと区別するため、フレンチ・ポップスと呼ばれた。
1967年同じレコード会社に所属するドミニク・ワルテルに協力し、ワルテルの4曲入りEP盤『Mrs. Applebee』の3曲の編曲と音楽監督を担当。更に、ワルテルの4曲入りEP盤『Les Petits Boudins』に1曲 "Je N'Ai Pas Osé" を提供した。
1968年1月、「愛はあの人の胸に」がフランスでヒット。2枚目のアルバム『Le Bal Des Laze』を発表。
ポルナレフの曲「バラ色の心 (Ame Câline)」が "Soul Coaxing" に改題されて、レイモン・ルフェーブル・グランド・オーケストラによって演奏されたものが欧米のヒットチャートにランクインした。そして、欧米の多くのラジオ局が同曲をテーマ曲に選定し、ポルナレフの名前が世界的に広く知られるようになる。その後、多くのイージーリスニングのバンドやオーケストラによって同曲が "Soul Coaxing" のタイトルでカバーされている。ザ・ベンチャーズもカバーし、ペギー・マーチなどは、英訳した歌詞を乗せてカバーした。
7月、「門番の娘」がフランスでヒット。12月、演出家・ジャン=ルイ・バローの依頼で、演劇『ラブレー (Rabelais)』の音楽を担当。演劇畑の評論家からも高い評価を受ける。6曲入りEP盤 "Extraits De La Musique De Scène De Rabelais" も発売された。
1969年3月、2枚目のアルバム『Le Bal Des Laze』がシャルル・クロ協会のディスク大賞を受賞。
5月、「渚の想い出」[6]がフランスで大ヒット。夏季3大ヒットの1つに数えられる。B面は「シェリーに口づけ」。11月、パリのオランピア劇場での初の公演を行う。 12月、「ステキなランデブー」がフランスでヒット。
フランス映画『Erotissimo』でポルナレフ作曲の「La femme faux-cils」が使用されている。(作詞はジャン=ルー・ダバディ、歌は主演の アニー・ジラルド)
1970年 1月、「想い出のシンフォニー」がフランスでヒット。4月までレコード売上げの1位を独占。1月14日から同月27日まで、オランピア劇場で公演を行い、大成功となる。
3月、映画プロデューサーのクロード・ルルーシュから映画『哀しみの終るとき』の音楽の依頼を受ける。映画の公開は1971年。7月、「僕は男なんだよ」がフランスで大ヒット。B面は「忘れじのグローリア」。 10月、ギリシャ、モロッコなどを旅行した後、ロンドンで次のアルバム『Polnareff's』のレコーディングを開始。
11月、アルバム『Polnareff's』のストリングスとブラスのセクションの録音をパリで行う。また、久々に公に姿を現した。フランソワ・レシャンバック監督のスイス映画『L'indiscret (口の軽い人)』の音楽を担当。映画の公開は1974年。
1971年8月に日本ではCBSソニー(レーベルはその前月に発足されたばかりのエピック)よりシングル「シェリーに口づけ(Tout, tout pour ma chérie)(c/w 初めての愛)」と、同曲を追加収録したファースト・アルバム『愛と青春のトルバドゥール/ミッシェル・ポルナレフ 1』が発売される。それまで、テイチク、日本コロムビア、CBSソニーからレコードが発売されていたが、日本での人気はこの時に火が付き、「シェリーに口づけ」がラジオ・チャートでトップ入りし、40万枚を売り上げる大ヒット・シングルとなったことで、実質的にはこの時点が日本でのデビューとされている。[7]
10月、シングル「愛の願い (c/w 君の幸福と僕の後悔)」、フランス盤と同内容(但し、ジャケットのデザインは異なる)のセカンド・アルバム『フレンチ・ポップスのスーパースター/ ミッシェル・ポルナレフ 2』をリリースした。当時の日本でのキャッチフレーズは「フレンチ・ポップスのスーパースター」と「ロックとロマンの出逢い」であった。
フランスのコメディ映画「大乱戦 (La Folie Des Grandeurs)」の音楽を担当。サントラ盤のLPがフランスで発売された。主演はかつてポルナレフの父親が曲を提供したこともある歌手・俳優のイヴ・モンタン。
1972年フランスでは、シングル「愛の休日」が大ヒット。「哀しみの終わるとき」(同名映画のテーマ曲)、「愛のコレクション」、「渚の想い出」のシングルも続いて発売された。日本では、サード・アルバム『ポルナレフの世界 / ポルナレフ3』と、それまでの3枚のアルバムに収録されなかったヒット曲をまとめた編集盤『ポルナレフ・ナウ』が発売された。また、日本ではシングル「哀しみの終わるとき (c/w カトリーヌの追憶)」、「愛のコレクション (c/w 神父様の結婚式)」、「渚の想い出 (c/w コンピュータの夢)」、「愛の休日 (c/w 愛の物語)」が発売された。
1月6日、ポルナレフのインタビューとライヴのシーンをメインとしたドキュメンタリー番組 "A Bout Portant" がフランスの公共テレビ局ORTFで放送された。後にこの映像は INA(フランス国立視聴覚研究所)からインターネットを通じて有料配信され、日本では「ミッシェル★ポルナレフ」のタイトルで1999年にビデオソフト(VHS版のみ)として発売されている。
10月6日から同月22日まで、パリ・オランピア劇場でのライブ「ポルナレボリューション」(Polnarévolution = Polnareff + Révolution の造語)が開催されたが、公演に先立つ宣伝用ポスターはポルナレフ自身の臀部を露出した写真が使用され、それがパリの街中に貼り出された。この行為がフランス当局より「公序を乱した」としてポルナレフが逮捕され、フランス国内各紙一面に「ポルナレフ逮捕される」の記事が掲載され、大きなセンセーションを巻き起こした。ポルナレフはこの件の裁判で罰金360万フランの求刑がなされたが、判決では、ポスター1枚あたり10フラン、合計で罰金6,000フランの支払が課せられた。
この時のオランピア劇場でのライヴ録音盤が、後に「熱狂のオランピア (原題:Polnarévolution)」のタイトルで発売されている。
また、フランスの人気ロック歌手・ジョニー・アリディ出演のドキュメンタリー映画『ジョニー・オン・ステージ』にピアニストとしてサプライズ・ゲスト出演する。撮影は1971年9月24日、パリのパレ・デ・スポール。
シングル「愛の休日」は日本でも大ヒットし[8](「シェリーに口づけ」を超える彼の最大のヒットとなった)、11月に初の来日公演が実現した。バック・バンドはフランスのロック・バンド、ディナスティ・クリジス(Dynastie Crisis)。東京公演を録音したライヴ盤「ポルナレフ・ア・トーキョー(発売時邦題)」が翌年になって日本でのみ発売されている。この日本での大人気に乗じて、翌年に予定されている次作アルバムについて日本先行発売をする計画が発表された。
1973年4月、再びオランピア劇場でのコンサート「ポルナレーヴ」(Polnarêve = Polnareff + Rêve の造語で、Rêve はフランス語で「夢」の意味)を開催。3週間にわたる最終ステージで、フランスとの訣別宣言をする。この後、ポルナレフは2007年までの34年間、フランスでのコンサートを行なっていない。
前年のオランピア劇場コンサートでのセクシー・ポスターをエスカレートさせ、今回はオールヌードで股間を帽子で隠している写真が公開され、日・仏で話題となる。今回はフランス当局からのクレームなし。この写真は後に、日本編集アルバム「ポルナコレクション」のジャケットにも使用されている。5月31日、ロスアンジェルスに滞在中、母の訃報が届く。
6月、2度目の来日公演を開催。東京でのライヴの模様が90分の特別番組「ミッシェル・ポルナレフ / ロックンロール熱狂のライブステージ」として東京12チャンネルで同月17日に放送された。オープニングの「ラース家の舞踏会」の奇抜なライト・ショーから始まり、アンコールではステージ上に観客を上げて、"Be-Bop-A-Lula", "What'd I Say" などのロックン・ロールのスタンダード・ナンバーを歌う姿まで放送され、ライヴでのポルナレフの姿を見せる貴重な映像となっている。また、NHKの番組『世界の音楽』にも出演し(同月7日にスタジオ収録。17日に放送され、後日に再放送あり)、「シェリーに口づけ」、「忘れじのグローリア」、「愛のコレクション」など数曲の演奏を披露している。ただし、「シェリーに口づけ」はレコード音源によるリップシンクであった。後年、NHK教育テレビの『たのしいフランス語』でこの映像の一部が数度放送されている。バック・バンドは初回の訪日公演と同じく、ディナスティ・クリジスが担当。
7月20日、日本先行発売予定のアルバム『ポルナレフ革命』(原題は Polnarévolution ではなく Polnarêve)の発売は同年12月に延期された。ちなみに、『ポルナレフ革命』は日本側(エピック)で独自にジャケット制作し、日本側の担当ディレクターによって曲順が決められたため、日本盤と翌年6月に『Michel Polnareff』のタイトルでリリースされたフランス盤は内容が異なる。(曲の長さの違いや、ミキシング違いなどもある)
その後、アメリカ合衆国・ロサンゼルスへ移住し、本格的なアメリカ・デビューを目指したが、本国フランスとロサンゼルスでの生活習慣のギャップ、税金問題(財務担当者であったベルナール・スノーによる横領が発覚し、数年間の納税未納が明らかになり、500万フランの脱税容疑がかけられ、帰国すれば即時逮捕と言われていた)でノイローゼ気味となった。
日本では、シングル「忘れじのグローリア (c/w ジョブ)」、「火の玉ロック (c/w トランペット)」、「愛の伝説 (c/w ロージーからの手紙)」が発売された。「火の玉ロック」は前年の東京公演のライブ・レコーディング盤「ポルナレフ・ア・トーキョー」からのシングル・カットで、かつてジェリー・リー・ルイスがヒットさせたロックン・ロールのスタンダード・ナンバーである。「愛の伝説」はアルバム『ポルナレフ革命』からの先行発売。「僕はロックンローラー」もヒットした。
1974年日本ではアルバム『ポルナレフ革命』からのシングル・カット「悲しみのロマンス (c/w ラース家の舞踏会 - ライヴ)」がヒット。「悲しきマリー (c/w 君の幸福と僕の悔恨)」もヒットした。この「悲しきマリー」が日本でのポルナレフ最後のヒットになった。6月、自叙伝「Polnareflexion」がフランスで発売された。
3度目の来日公演が行なわれた。バック・バンドはイギリスのプログレ・バンド、ウォーリー(Wally)。後にウォーリーのメンバーが語るには、「どうしてポルナレフのバック・バンドを請け負ったかって? だって、日本に行ってみたかったんだもの。」
アメリカで録音された全曲英語で歌われている新作アルバム「ポルナレフ U.S.A.(原題:Michel Polnareff / Fame A La Mode)」が発売された。日本では同アルバムより「青春の傷あと (c/w 僕のレディーブルー)」がシングル・カットされて発売されている。
税金問題(前述)でフランスの地を踏めない状況にあった為に、10月26日にフランスの隣国のベルギーにて大規模なコンサートを行なうことが発表された。フランスのラジオ局RTLによって、フランスから特別列車で会場(ブリュッセルのフォレスト・ナショナル)近辺まで行ける企画がなされ、多くのフランスのファンがコンサートにやってきた(チケット総数14,000枚の半分の発売はフランスでされた)。会場への機材の到着が遅れ、開演が3時間遅れというトラブルもあったが、このコンサートは大成功に終わる。この日を最後に、ポルナレフは1979年までコンサート活動を行っていない。
また、翌日の10月27日に、ポルナレフはルクセンブルクのテレビ局 "ラジオ・テレビジョン・ルクセンブルク" でスタジオ・ライヴを行い、この映像はベルギー、ルクセンブルクとフランスで(翌年7月21日に日本でもNHKの「世界のワンマンショー」という番組で)放送されている。バック・バンドのメンバーは、セッションマンとして著名なリーランド・スカラー(ベース)、マイク・ベアード(ドラム)、当時はまだ共に無名に等しかったリー・リトナー(ギター)とデビッド・フォスター(キーボード)。
1976年1月2日、前年10月27日にルクセンブルクで収録されたスタジオ・ライブの映像がフランスで "Show Michel Polnareff" のタイトルでテレビ放送された。
アメリカ映画「リップスティック」の音楽を担当。サントラ盤のLPが発売された。日本ではポルナレフの写真が使われたジャケットに変更されていた。アレンジャーとしてポルナレフの他にデビッド・フォスターが参加。
1977年シングル「哀しみのエトランゼ (c/w 僕のマドモアゼル)」を発売。
共演アルバムを作りたいと喜多郎に要請する。しかし、喜多郎のスケジュールが合わずに実現しなかった。10月6日、税金問題(前述)の裁判で、責任はポルナレフにはなく、財務担当者にあると認められ、その男が税の支払いの義務を負うことになった。この法的な解決を受けて、ポルナレフは5年ぶりの帰国をし、直後にロサンゼルスに帰った。
1979年アルバム「美しきロマンの復活」を発売。日本ではシングル「愛のシンフォニー (c/w 美しき帰還)」、「天使の遺言 (c/w マジックマン)」を発売。「愛のシンフォニー」でベースを弾いているのはジャコ・パストリアスである。
4回目の来日コンサート・ツアーが行われる。
1981年アルバム「シャボンの中の青い恋 (原題: Bulles)」が発売されるが、日本ではシングル盤は発売されなかった。しかし、このアルバムはフランスでは80万枚を売り上げ、ヒット・チャートでトップにもなり、本国での人気の証となった。
1985年アルバム「アンコグニート(Incognito)」をフランスで発売。このアルバムの日本盤は2001年のCDリリースまで発売されなかった。
1988年ジェーン・バーキン主演の映画「アニエスv.によるジェーンb.(原題:Jane B. par Agnès V.)」にポルナレフの曲「愛の願い」が使用された。
この頃から約2年半に渡り、引きこもり状態となり、スイスとの国境に近いフランスの田舎町のマノワール(小規模ホテル)で隠遁生活を送る。後にパリのホテル、ロワイヤル・モンソーに転居。この間に次作アルバムの構想ができたと言われている。
1989年フランスでシングル「グッバイ・マリルー(Goodbye Marylou)」発売。前後して、過去の作品の一部がDisc AZ及びSony MusicからCD化発売される。
1990年アルバム「カーマスートラ (Kâma-Sutrâ)」発売。収録曲 "LNA HO" のアニメーションによるビデオ・クリップも公開された。
1992年フランスのテレビ局M6の番組 "Nouba" で、ポルナレフのインタビュー特集が放送された。帽子をかぶって椅子に座り、暗い部屋の中で過去の映像をテレビモニターで見ながらインタビューに答えるポルナレフの姿は、全編に渡って、背後からの映像のみであり、喋る声質も以前と違っているために、「本人ではないのでは?」、「何かポルナレフにあったのか?」などさまざまな憶測が生じた。
1994年、80年代末の隠遁生活の頃から患っていた両目の白内障の症状が進行し、視力がほぼ喪失した失明寸前状態になる。目の手術で水晶体が除去され、人工的に作られた眼内レンズを埋め込まれて、手術は成功した。
その後、ポルナレフはロサンゼルスに戻り、再度、ロサンゼルスでの生活を始めた。
1995年ロサンゼルスのウェスト・ハリウッドにあるナイト・クラブ「ロキシー・シアター」でコンサートを行う。この公演はライヴ録音され、翌年に "Live at the Roxy" のタイトルでCDが発売される。
1996年CD "Live at the Roxy" の発売前に、1時間のドキュメンタリー番組「A La Recherche de Polnareff(ポルナレフを探して)」が放映される。また、カリフォルニア砂漠の中でピアノで弾き語りをする姿を撮影したプロモーションフィルム「Polnareff dans la Désert」が制作され、公開されている。1997年Disc AZ時代の初期作品60曲を集めたコンピレーションCDボックス"Les Premières Anneés"がユニバーサルミュージックから発売され、続いて初期のアルバム3作がCD化される。
1999年パルプ、セント・エティエンヌらが参加したトリビュート盤が発売される。
ポルナレフ自身の久々のシングル「Je rêve d'un monde (When I'm In Love)(僕は一つの世界を夢見る)」が発表された。アルバム『ポルナレフ革命』がワーナーミュージックより再発売される。
2000年、ポルナレフの過去の音源のうち、ソニーミュージックがインターナショナルの発売権を保有していた75年代半ばから80年代までの作品がユニバーサルミュージックからリリースされるようになる。日本でもベストアルバムに次ぎ未CD化のアルバムの多くが翌年にかけて順次CD化された。90年代の作品や以後のシングルも、この後順次ユニバーサルミュージックからリリースされる。
2004年、自叙伝「Polnareff par Polnareff」がフランスで発売された。11月22日、90分のドキュメンタリー番組 "Michel Polnareff Dévoilé" がフランスのテレビ局フランス3で放送された。(翌年12月18日に再放送あり)
2006年12月、フランスでシングル「Ophélie Flagrant des Lits」発売。日本でも翌年この新曲を収録したベストアルバムの発売が予告されたが、発売中止となった。
2007年、3月2日、本国フランスでは34年ぶりとなるコンサートツアーをパリから開始。ツアーの名称は "Ze Tour 2007" と題された。バック・バンドにはトニー・マカパイン(ギター)、バニー・ブルネル(ベースおよび音楽監督)、ヴァージル・ドナティ(ドラム)ら、フュージョン・バンド「CAB」のメンバーが参加。フランス各都市のほか、ベルギー、スイスでも公演を行った。
3月2日のパリ公演はビデオ撮影とライヴ・レコーディングがなされ、同年12月に "Ze [re] Tour 2007" のタイトルでDVDとCDが発売されている。(但し、DVDもCDもコンサート完全収録ではなく、「バラ色の心」など一部の演奏曲が収録されていない。また、DVDとCDの収録曲も一部が違っている。)
アメリカでのグラミー賞に相当するフランスの音楽賞「ヴィクトワール音楽賞(ヴィクトワール・ドゥ・ラ・ミュジーク)」の名誉賞(Honorary Award)を受賞。パリでのコンサートの中で授賞式が行なわれ、その様子はテレビ局フランス2によってフランス国内で生中継された。
7月14日のパリ祭(フランス革命記念日)のイベントの1つとして、エッフェル塔を望むシャン・ド・マルス公園で、無料の屋外コンサートが行われた。会場には60万人が訪れ、コンサートの模様はフランスのテレビ局M6によってフランス国内で生中継がなされた。
2008年、ヴィクトワール音楽賞の年間コンサート部門賞(Musical Show, Tour or Concert of the Year)を2007年の "Ze Tour 2007" が受賞。
2009年、07年のツアー時のバック・バンドのメンバーたちのバンド「CAB」のアルバム「Théâtre de Marionnettes」が発表された。ポルナレフは1曲にのみピアノで参加。録音は前年の2008年。
2010年、8年前から交際中であった恋人のダニエラ(Danyellah)が12月28日に男児を出産し、ポルナレフが一児の父となったことが公表された。ポルナレフ66歳、ダニエラ27歳のカップルが話題になり、ポルナレフと妊婦姿のダニエラのツーショット写真がマスコミに公開された。男児はヴォロディア(Volodia)と名づけられた。ヴォロディアの名前の由来は、ポルナレフの父親の祖国・ウクライナでの一般的な男性の名であるウラジミール(Vladimir)の愛称である。
2011年2月、前年末に生まれた男児の父親はポルナレフではなかったことが、ポルナレフ自身によってFacebookおよびツイッターで発表された。ポルナレフによると、
「私の子供ではなかったことを告げなければならないのは非常に悲しい。何回も私が子供のDNA検査を主張したところ、ダニエラは真実を告白し、それは検査でも確認された。」
とのこと。ダニエラはポルナレフに真実を告白した後に、男児と共に失踪している。
11月7日、今までにポルナレフが担当した映画音楽を集めたアルバム“Le Cinéma de Polnareff”が発売された。
2013年5月7日、本人公認の写真集 "Le Polnabook" がフランスで発売された。
8月10日に異母兄のボリス・ポルナレフ(ブルガリアの科学者)がブルガリアにて91歳で亡くなったことがポルナレフ自身によって発表された。
2014年1月、過去のテレビ出演映像、ビデオクリップ、インタビュー映像を集めた2枚組DVD "Polnareff Classics Vintage" が発売された。
2011年に別れていたダニエラと和解。ヴォロディアとも再会。6月にドキュメンタリー映画 "Quand L'écran S'allume" が公開された。同映画は9月にベルギーで、10月にはフランスでテレビ放送された。 2014年内に新作アルバムを発売する予定が発表されたが、結局、2014年には発売されなかった。
2015年4月、ポルナレフはフランスの金融会社 Cetelem を名誉棄損で告訴。2011年よりCetelemはテレビ放送用のCMのシリーズで、ポルナレフに似せた人物を無許可で登場させていた。ポルナレフは100万ユーロの損害賠償を求めている。
フランスの中部の街・モンリュソンにあるミュージアム "MuPop" において、6月21日から12月31日までの間、"PolnaEXPO" と題されたポルナレフ展が開催され、コスチューム、私物、手稿、レコードが展示された。6月20日にはポルナレフも現地を訪問した。12月、翌年のツアーの日程が発表された。
2016年4月30日より9年振りのツアーを開始。バック・バンドにはブラッド・コール(音楽監督、キーボード)、ピーター・ソーン(ギター)、トニー・マカパイン(ギター)、レジー・マクブライド(ベース)、カート・ビスケラ(ドラム)らが参加。このツアーのクライマックスとなった革命記念日のオランピア劇場での公演が、アルバム"À l'Olympia 2016"として発売された[9]。
2017年12月、51年間の音楽活動のほぼ全てを網羅した23枚組のCDセット「POP ROCK EN STOCK」を発売。法的な問題で収録できない"L'affreux Jojo"を除く全431トラックの内容には、過去のスタジオアルバム・シングル・EPに加え、日本以外で初発売となる"Polnareff à Tokio"を含むライブアルバム、さらに初商品化の1967年ローザンヌ、同年ダリダのオープニングアクトで登場したオランピア劇場、1973年のオランピア劇場、伝説となっている1975年のブリュッセルでのライブ、英語・スペイン語・イタリア語・ドイツ語の音源、デモ録音や別名での録音まで含まれる。
日本でのシングルのみを記す(フランス本国でのシングルとは大きく異なる)。
日本において発売されたアルバムを記す。
本国フランスにおいて発売されたアルバムを記す。
注:1960年代から1970年代初期のフランスでは、4曲入りEP盤でのレコード販売が主流だった為に、ポルナレフの曲ではEP盤に収録されながらもアルバム未収録の曲が多数ある。彼のフランスでのデビュー曲「ノンノン人形」もEP盤だった。
(イタリアでは1974年にイタリア語バージョンの8曲を含む全12曲のLPレコード "Michel Polnareff" が発売されている。2013年に限定盤として復刻発売されている。イタリア語バージョンはオリジナルのフランス語バージョンのボーカル部分のみの差し替えが基本であるが、「ビートニク」は演奏部分にミックス違いがあり、曲の長さもイタリア語バージョンのほうが長い)
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