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カルロ・リッツァーニ(Carlo Lizzani、1922年8月3日 - 2013年10月5日[1][2])は、イタリアの映画監督、脚本家、批評家。
第二次世界大戦前のローマに生まれたリッツァーニは、まず脚本家として働きはじめ、いずれも1948年の映画であるロベルト・ロッセリーニ監督の『ドイツ零年』やアルベルト・ラットゥアーダ監督の『ポー河の水車小屋』、また、ジュゼッペ・デ・サンティス監督の1949年の映画『にがい米』脚本に参加し、『にがい米』は第23回アカデミー賞で原案賞にノミネートされた。
複数のドキュメンタリー作品の監督を務めた後、リッツァーニは、1951年の映画で第二次世界大戦を舞台にしたドラマ『Achtung! Banditi!』によりフィーチャー映画の監督としてデビューした。監督デビュー後も『オリーヴの下に平和はない (Non c'è pace tra gli ulivi) の脚本の共作に参加するなど、脚本家としても活動した。
第7回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品された1954年の映画『Cronache di poveri amanti』により尊敬を集めた彼は、『ミラノの銀行強盗』(1968年)や『マンハッタン皆殺し作戦』(1974年)、犯罪コメディ『Roma bene』(1971年)で、ジャンル映画、特にクライム映画(犯罪映画)に長けた監督としての定評を得た。『L'oro di Roma』(1961年)では、ローマのユダヤ人たちの最後の国外退去と1943年10月のローマ・ゲットーへの大襲撃 (grande razzia)と称されるユダヤ人狩りをめぐる出来事を描いた[3]。1968年の『ミラノの銀行強盗』は、ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の監督賞とナストロ・ダルジェント賞の脚本賞を受賞した[4]。
1980年代には、イタリアのテレビで頻繁に活動し、また、1979年から1982年までの4回にわたってヴェネツィア国際映画祭の監督を務めた[5]。1994年には、第44回ベルリン国際映画祭で審査会の一員を務めた[6]。
1996年の映画『Celluloide』は、『無防備都市』の製作過程を追ったもので、この作品で彼はダヴィッド・ディ・ドナテッロ脚本賞を受賞した[4]。
リッツァーニは、1950年代以降、映画についての著作を数多く発表した。(詳細は it:Carlo Lizzani#Libri を参照)
1996年にはイタリア共和国功労勲章グランデ・ウッフィチャーレを受章し[7]、2002年には更にカヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェを受章した[8]。
2013年10月5日、91歳のリッツァーニは、ローマのグラッチ街 (Via dei Gracchi) の自宅マンションのバルコニーから身を投げ、自殺した[1][2]。晩年のリッツァーニは、自身や妻の病気に悩んでいたとも報じられた[2]。
日本公開の際の邦題など、日本語題があるものは各行の先頭に、またイタリア語原題と大きく異なる英語題があるものは各行の末尾に、それぞれ追記している。
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