Remove ads
ウィキペディアから
タミル・イーラム解放のトラ(タミル・イーラムかいほうのトラ、タミル語: தமிழீழ விடுதலைப் புலிகள், tamiḻ iiḻa viṭutalaip pulikaḷ、英語: Liberation Tigers of Tamil Eelam, LTTE)とは、かつてスリランカで武装闘争を行っていたタミル人のテロ組織である。タミル・タイガーとも表記される。
この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。 (2006年11月) |
この記事の内容の信頼性について検証が求められています。 |
「イーラム」はスリランカを意味するタミル語で、トラは獅子(シンハ)つまりライオンの子孫を意味するシンハラ族に対抗するものであり、かつて南インドに強勢を誇ったタミル族の王朝・チョーラ朝の紋章でもあった。
スリランカ北部と東部にタミル人の独立国家タミル・イーラムを建国し、スリランカからの分離独立の獲得を主張して設立された[2]。インド共産党毛沢東主義派と連携している[3]という説がある。宗教的には世俗主義でマルクス・レーニン主義の影響を受けている[4][5][6]。
リーダーはヴェルピライ・プラバカラン。兵力は約9,000名とされていたが、2004年にカルナ派分離により、2006年時点で約4,000名と推定された[7]。世界タミル協会、世界タミル運動、在カナダ・タミル人協会連盟等の国際組織から合法的に開設された銀行口座を通して資金援助を受け、外貨獲得のために相手を問わない武器輸出を行っていた独立国家共同体(CIS)諸国や2006年から07年にかけて北朝鮮からも対戦車砲などの武器を調達していた。
保有武器は小火器が主体だが、戦車や、高速艇や潜水艇等の船舶、COIN機を中心とした小型航空機も有していた。
スリランカ北部と東部の沿岸州で軍事行動を展開していたが、ノルウェーを仲介して成立した停戦が破棄された後、政府軍の攻撃で組織的な軍事行動の範囲を狭め、2008年11月には約20年ぶりに政府軍が北部の西海岸を奪還、事実上の首都として機能してきたキリノッチも陥落した。
そして2009年5月17日にLTTEは敗北宣言をし、スリランカ政府とLTTEの四半世紀以上に亘る内戦は事実上終わりを告げた。19日にはプラバカラン議長の遺体が発見された[8]。24日にはLTTEの国際関係部門のトップが声明を出し、議長の死亡を公式に認めた。声明では「我々は暴力に頼ることを諦め、民主的なプロセスを経てタミル人の民族自決権獲得を目指すことで合意した」としている[9]。
スリランカは多民族国家であり、人口の約74%がシンハラ人、約13%は古くから住んでいる「スリランカ・タミル人」、約5%がイギリス植民地時代にプランテーションへの労働力として移住させられてきた「インド・タミル人」である[10]。植民地時代、シンハラ人(主に仏教徒)はイギリスの支配に対立・抵抗を続けたのに対し、比較的従順だったタミル人(主にヒンドゥー教徒)がイギリス政府に重用されていた[11]。
1947年の議会選挙では1人1票制が採用され、シンハラ人がセイロン(当時)の政府で多数派を得た。1944年に設立されていた全セイロン・タミル会議(ACTC)はレバノン型の権力分割(50:50)を主張していたが、高地ではシンハラ人よりもインド・タミル人が多数派であり、独立直後の政府にとって脅威であったため、受け入れられることはなかった[12]。その後インド・タミル人は1948年制定の『セイロン市民権法』により公民権を失い、1949年の『国会選挙法』により選挙権を失った。[13]さらに1956年、ソロモン・バンダラナイケ政権は「シンハラオンリー法」を採択し、タミル人への差別が始まった[11]。
セイロン政府は、悪化するスリランカ経済に対する不満をそらすために、シンハラ政策を推し進め[14]、1965年にはシンハラ人による反タミル人・キャンペーン、民族浄化を提唱するスリランカ人民解放戦線が創設された。1970年に就任したシリマヴォ・バンダラナイケも、1978年に大統領に就任したジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナもタミル人政策には着手しなかった[11]。1972年制定のスリランカ共和国憲法でも、1978年制定のスリランカ民主主義共和国憲法でも、『仏教に至高の地位を与える』という条項は残り、タミル人への差別は続いた。
タミル人の穏健派は、ACTC→タミル統一戦線(TUF)→タミル統一解放戦線(TULF)という変遷を経て、政治的手法を用いながらインドのタミル・ナードゥ州及びスリランカのタミル人居住区から成る統一タミル人国家の創設を主張した[12]。
一方、1970年になると、タミル人に著しく不利な「大学入学の標準化政策」の阻止を目的に、武装した若者による過激派も形成されていく。1972年、タミル人の言語と教育を守るためには武器をとるのが唯一の方法と考えた当時18歳のプラバカランは、タミルの新しいトラ(英語: Tamil New Tiger, TNT)を設立、1975年にジャフナ市長を暗殺する。
1975年5月5日、TNTを母体にタミル・イーラム解放のトラ(LTTE)が設立され、ヴェルピライ・プラブハカランが議長及び軍司令官に指名された。その後、1977年と1981年にシンハラ人によるタミル人への暴動が起き、タミル人のLTTEを始めとする武装団体への支持が高まっていった[13]。
1980年代に入ると、スリランカ政府は穏健タミル政党であるTULFを非合法化し、タミル人との対話を完全に断絶してしまう[14]。一方、LTTEはゲリラの訓練をインド南部で行い[11]、訓練キャンプを各地に設立し、本格的な武装闘争を展開し始める。
1983年7月23日、LTTEは地雷を用いた初めてのゲリラ攻撃を行い、政府軍兵士13人を殺害する。これをきっかけに7月25日、コロンボで大規模なシンハラ人によるタミル人への暴動(7月暴動、黒い7月)が起き、LTTEは分離独立運動を活発化していく[12]。当初劣勢だった政府軍は、装備の充実に努め、1987年までにはLTTEを北部のジャフナに追い詰めることができた。
しかし、ここで親タミル的なインドが介入し、タミル人に物資を空中投下し、スリランカ政府に停戦の圧力を加えた。当時のスリランカ大統領ジャヤワルダナは、これに激怒し一時は宣戦布告も考えたが、結局交渉に入った。交渉での合意に従い、タミル人には自治権が与えられ、武装解除の義務を負うこととなった。停戦の監視には、インド平和維持軍(IPKF)が当たった。停戦後、平和が訪れたかに見えたが、今度はシンハラ人民族主義者がテロ活動を展開した。LTTEも、これを好機と見て武装闘争を再開した。インド平和維持軍は、LTTEに対して大規模な行動に出ることに決め、1988年5月には5万5千人の部隊をスリランカに駐屯させた。
1989年に当選したラナシンハ・プレマダーサ大統領は、大きくなりすぎたインド平和維持軍のプレゼンスを排除するために、LTTEとの交渉を再開し、休戦が発表された。存在意義を失ったインド平和維持軍は、スリランカ政府の執拗な要請の下、1990年3月に撤退した。同時にプレマダーサは、政府や与党統一国民党(UNP)要人へのテロを繰り返していたシンハラ人民族主義者組織であったスリランカ人民解放戦線(JVP)への掃討作戦を行い、4,500人から20,000人以上の死亡者が出たものの、JVPは武力闘争を放棄した。この間、LTTEもテロ活動を再開し、1991年5月21日には元インド首相ラジーヴ・ガンディーを暗殺、1993年5月1日にはプレマダーサ大統領を暗殺した。
1994年にチャンドリカ・クマーラトゥンガが大統領に当選し、三度LTTEとの交渉を再開したが決裂し、政府軍は大攻勢を展開して、1995年にLTTEの拠点ジャフナを奪取した。攻勢は継続されたが、決定的な勝利を収めることはできず、LTTEのテロにより治安情勢は顕著に悪化し、1998年には非常事態が導入された。1999年12月18日にはクマーラトゥンガ大統領の暗殺未遂が起き、これによりクマーラトゥンガは視力を失った。
2000年以降はノルウェーの調停で停戦していたが、LTTEの爆弾テロが止まらなかったため2006年にスリランカ軍が北部拠点の空爆を開始、政府は停戦破棄を否定したがLTTEは停戦破棄を宣言した。これを受け政府側も2008年1月3日にノルウェー政府に対し停戦破棄を通告、同16日に失効した。インドのライバルである中華人民共和国とパキスタンの大々的な援助をとりつけたマヒンダ・ラージャパクサ政権はLTTEの完全殲滅を目指し、各所で攻勢を掛けた。最終的に2009年5月17日、LTTEは敗北宣言を出したがその後も政府側の攻撃は続き、プラバカラン以下23名のLTTE幹部は19日までに全員死亡した。
奇襲作戦やゲリラ攻撃を得意としている。自爆テロで多くの要人を殺害している。LTTEの兵士は、イデオロギー工作によって植えつけられたシンハラ人に対する被害者意識で凝り固まっており、自己の生命もシンハラ人の生命の価値も一切評価しなかった。
海上部隊は「シー・タイガー」と呼ばれ、2007年中にはLTTEの輸送船への攻撃も含め、スリランカ海軍との海戦が頻発するなど[19]、両者はしばしば衝突している。海上部隊の中には、かの震洋のように、爆薬を搭載した高速艇で敵艦に突入するための「ブラック・シー・タイガー」と呼ばれる部隊があり、自爆攻撃でスリランカ海軍の艦艇を撃沈している。
戦闘の本格化に伴い、2007年3月、LTTEは内戦史上初となる改造民間機[注 1]を投入した航空攻撃を敢行した[注 2]。近代的な防空システムを持たないスリランカ軍はゲリラ的な空襲に対して有効な対応を取ることが出来ず、低速のレシプロ機による首都爆撃をそのまま見過ごすという失態を演じた。
しかしながら、地上においては政府軍は北部及び東部での戦闘を優位に展開しており、一連の航空攻撃及び無差別テロの激化はLTTEの苦境を示すものではないかとも見られていた[20]。
LTTEの新兵は、厳しい戦闘訓練と、偏った歴史認識の植え付けによるイデオロギー工作で洗脳され、シンハラ人を狙った殺人や自爆・自決を厭わなくなる。生きて敵の捕虜になることは固く禁じられており、LTTEの戦闘員は逮捕されそうになると自害する。自殺のために青酸カリが戦闘員全員に支給されている。自殺の代表例としては、1987年10月、政府海軍に逮捕されたLTTE17人は青酸カリで服毒自殺を図り、12人が死亡している[12]。
一般のタミル人に向けては、例年11月27日(『英雄の日』ヴェラッピライ・プラバハカランの誕生日)にプラバカラン自身がLTTEの戦闘方針や指導方針について演説している[21]。
LTTEの東部方面司令官だったビニャガマムーシ・ムラリタラン司令官(通称カルナ司令官)ら数百名が分派したカルナ派も、母体であるLTTEと同様にテロを多用するもので、2005年12月25日にはLTTEに近いタミル国民連合(TNA)のジョゼフ・パラジャシンハム議員暗殺事件を敢行したほか、2006年中に東部一帯で少年ばかり数百名を自軍に加える目的で拉致し、政府軍もこれを黙認したとされる[22]。
LTTEは、未成年者を少年兵として利用していると、国際連合児童基金[23]や「国連安全保障理事会の子どもおよび武力紛争に関する作業部会」から非難されている[24]。 LTTEの戦闘員は、タミル人の農村から未成年者を強制的に徴兵している。子供を戦争に送りたくない親達は、政府軍の支配地に逃れているが、それでもLTTEの戦闘員はどこからともなく現れ、子供を連れ去っている。子供が就学している場合、卒業後LTTEに入隊することを条件に徴兵を猶予されることもある。
強制的に徴兵された子供達は、LTTEの訓練キャンプにおいて毎日朝4時半から夜遅くまで、徹底的なイデオロギー工作を受ける。やがて、子供達は自分自身をタミル人のための「自由の戦士」と考えるようになり、自爆もいとわない戦闘員になる。訓練キャンプを卒業する際に、自決用の青酸カリが支給される。そして、今度は自分が子供達を兵士に勧誘する立場になる。 未成年者の徴兵は、タミル人内部でも批判の声があり、1990年代から子供を取られた両親や人権擁護組織は、子供達の返還を要求し始めた。1998年、国連の特別監視団がLTTEの支配地を訪問したが、LTTEは17歳未満の子供を徴兵していないと請け合った。しかしながら、両親達はこのことを信じておらず、LTTEの支配地から逃れることを選んでいる。
内戦が終結したスリランカでは、シンハラ人の青少年にはタミル語の習得を、もう一方のタミル人の青少年にはシンハラ語の習得を義務付ける法律が施行され、憎しみの連鎖を止める取り組みがなされている。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.