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アメリカのジャズピアニスト・作曲家 ウィキペディアから
ハービー・ハンコック(Herbie Hancock、1940年4月12日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ出身のジャズ・ピアニスト、シンセサイザー奏者、作曲家、編曲家、プロデューサーである。クロスオーバー、フュージョンなど多彩なジャンルで活動した。来日回数も多い。
ハービー・ハンコック Herbie Hancock | |
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ハービー・ハンコック(1999年) | |
基本情報 | |
出生名 | Herbert Jeffrey Hancock |
生誕 | 1940年4月12日(84歳) |
出身地 | アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴ |
ジャンル |
ジャズ ポスト・バップ モード・ジャズ フュージョン ジャズ・ファンク |
職業 |
ミュージシャン 作曲家 |
担当楽器 | キーボード |
活動期間 | 1961年 - |
レーベル |
ブルーノート・レコード コロムビア・レコード ワーナー・ブラザース・レコード ヴァーヴ・レコード |
共同作業者 |
ドナルド・バード クラーク・テリー マイルス・デイヴィス・クインテット ウェイン・ショーター チック・コリア ザ・ヘッドハンターズ V.S.O.P.クインテット ジャコ・パストリアス ジョニ・ミッチェル ハワード・ジョーンズ |
公式サイト |
herbiehancock |
1960年プロとしてデビュー。1963年から1968年まではマイルス・デイヴィス・クインテットのメンバーとして活躍。1970年代以降もジャズ・ファンクの『ヘッド・ハンターズ』、アコースティック・ジャズ人気を復活させたV.S.O.P.クインテットの諸作、ジャズ・ヒップホップのアルバム『フューチャー・ショック』など、ジャズの新しい時代を切り開く話題作を発表してきた。代表的な楽曲に「ウォーターメロン・マン」、「カンタロープ・アイランド」、「処女航海」、「ドルフィン・ダンス」など多くのジャズ・スタンダードの他、ヒップホップとのクロスオーバーを図った楽曲「ロックイット」もある。
ハンコックは1940年4月12日にアメリカ合衆国イリノイ州シカゴで生まれ[1]、7歳でピアノ・レッスンをはじめた。11歳のときにはシカゴ交響楽団と共演しクラシック音楽の世界に足を踏み入れている[1]。ジャズの演奏をはじめたのは高校時代である。オスカー・ピーターソンやビル・エヴァンスに影響を受けたといわれている。グリネル大学では音楽と電気工学を専攻[1]。卒業後は両親と同居し郵便配達の仕事をしながら[1]、ニューヨークのクラブやスタジオ・シーンで名を馳せる。
コールマン・ホーキンスからの電話をきっかけとし[1]、1960年にドナルド・バードのクインテットでプロとしてのスタートを切る。さらにドナルド・バードからブルーノート・レコードのアルフレッド・ライオンを紹介された。その後、2年間のセッションマンとして実績を重ね、21歳になった1962年にデクスター・ゴードンを迎えた作品『テイキン・オフ』でデビュー。この中に収録された「ウォーターメロン・マン」は1963年、モンゴ・サンタマリアによるカヴァーが全米10位の大ヒットとなり[2]、この作品でハンコックは押しも押されもせぬブルーノート新主流派の中心アーティストにのし上がった。その後、エリック・ドルフィーのもとで活動し、映画『欲望』などのサウンドトラックを発表した。
1963年、マイルス・デイヴィスのグループに抜擢され、1968年頃まで在籍する。脱退後もマイルス・デイヴィスのセッションに随時参加し、マイルスのいくつかのアルバムにその足跡を残している。またこの頃、自己のアルバムとして彼の代表作『処女航海』(1965年)や『スピーク・ライク・ア・チャイルド』(1968年)を発表した。
1969年にはブルーノートを離れ、ワーナー・ブラザース・レコードに移籍。『ファット・アルバート・ロトゥンダ』(子供向けテレビ番組のサウンドトラック)では同時期のマイルスと同様に大胆にエレクトリック・サウンドを取り入れた。次作『エムワンディシ』では更にアフリカの民族音楽、ポリリズムに傾倒し、自らもスワヒリ語名でアルバム・タイトル同様の「ワンディシ」というニックネームを名乗る。
1972年グリネル大学より名誉博士(美術)の称号を授与されている[3]。1973年に問題作『ヘッド・ハンターズ』を発表[4]。
1974年には、チャールズ・ブロンソン主演『狼よさらば』の映画音楽を担当した[5]。1975年6月25日にザ・ヘッドハンターズとして広島で公演。その後、原爆被爆者に捧げるとして滞在先の広島市内でピアノに向かって徹夜で作曲し、翌日、ピアノ・ソロ曲「平和の街のために(英語: For the City of Peace)」を広島市に寄贈した[6][註 1]。
1976年には、元マイルス・グループのメンバー(ウェイン・ショーター、トニー・ウィリアムス、フレディ・ハバード、ロン・カーター)を集めて、モダン・ジャズのグループ、「V.S.O.P.クインテット」を結成し世界中をツアーした。
1983年のアルバム『フューチャー・ショック』では、ヒップ・ホップを大胆に導入。「ロック・イット」「フューチャー・ショック」などの曲は、話題になった。DJスクラッチを取り入れたスタイルはクラブ・ミュージックの方向性を決定付けた。このアルバムはベーシスト兼プロデューサーであったビル・ラズウェルの実験的な音楽アイデアを元に製作された。またシングル・カットされたGrand Mixer D.STのスクラッチを取り入れた「ロックイット」が世界中で大ブレイク。翌年の『サウンド・システム』、1988年の『パーフェクト・マシーン』といったアルバムにもラズウェルが関わり、同じ作風の作品を発表している。これ以降の電気サウンド作品についても例に漏れず、不定期ではあるが作品を発表している。
1983年に初のグラミー賞となる「ベストR&Bインストゥルメンタルパフォーマンス」賞を受賞するなど、1980年代には3度グラミー賞を受賞(#グラミー受賞歴の節も参照)[7]。1985年にはベーシストのロン・カーターと共演したサントリー・ホワイトのCMがテレビ放映され、話題となった[8]。音楽監督を担当し自らも出演した映画『ラウンド・ミッドナイト』(1986年)では、アカデミー作曲賞を獲得している[9]。
1990年代には、現代のポピュラー・ソングを鮮烈なシャズ・ナンバーにしたアルバム『ザ・ニュー・スタンダード』(1996年)、アメリカが生んだ作曲家ジョージ・ガーシュウィンの生誕百周年を記念した『ガーシュウィン・ワールド』(1998年)などを発表。2001年にはマイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーンの生誕75周年を記念してマイケル・ブレッカー、ロイ・ハーグローヴと「ディレクションズ・イン・ミュージック」というスペシャル・プログラム(全米ツアー)を行い、トロント公演のライブ録音は2002年にライブ・アルバム『ディレクションズ・イン・ミュージック〜マイルス&コルトレーン・トリビュート』として発売された。
2003年からアジア最大級のジャズイベント「東京JAZZ」の総合プロデュースを担当[10]。2004年にNEAジャズ・マスターズを受賞[11]。
2008年の第50回グラミー賞においては『リヴァー〜ジョニ・ミッチェルへのオマージュ』が同賞の主要4部門の一つである、最優秀アルバム賞を受賞している。ジャズ・ミュージシャンの総合部門における最優秀アルバム賞受賞は1964年のスタン・ゲッツ&ジョアン・ジルベルトの『ゲッツ/ジルベルト』以来43年ぶりである[12]。その他、1990年代にはのべ5回、2000年代にはのべ4回、2010年代にはのべ2回、1983年の初受賞から通算14回、グラミー賞を受賞している[7](#グラミー受賞歴の節も参照)。
2011年にユネスコ親善大使に就任[13]。2014年には、名門ハーバード大学の2014年チャールズ・エリオット・ノートン詩学講義の特別教授(英語: Charles Eliot Norton Professor of Poetry)として連続講義を行った[14]。2017年には俳優として映画『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』に出演している。
創価学会インタナショナル(SGI)の会員である[15]。盟友ウェイン・ショーターもSGIの会員だった。2007年に亡くなったマイケル・ブレッカーは死の6か月前にSGIに入信し、ハンコックは彼の追悼式に参列した。
全作ともコロムビア・レコードからのリリース。
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