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イギリスのミュージシャン、音楽プロデューサー、音楽理論家、ビジュアルアーティスト(1948年生まれ) ウィキペディアから
ブライアン・イーノ(Brian Eno、本名:英語: Brian Peter George St. John le Baptiste de la Salle Eno[注釈 1]、1948年5月15日 - )は、イングランド出身の音楽家、自称『ノン・ミュージシャン』、音楽プロデューサー。
ブライアン・イーノ | |
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2015年 | |
基本情報 | |
出生名 |
Brian Peter George Eno (堅信名)Brian Peter George St. John le Baptiste de la Salle Eno |
別名 | Eno(1972年-1973年) |
生誕 |
1948年5月15日(76歳) サフォーク州メルトン |
出身地 | イングランド ロンドン |
ジャンル |
アンビエント 電子音楽 アート・ロック グラム・ロック ポップ・ミュージック |
職業 | 音楽プロデューサー、ミュージシャン |
担当楽器 | シンセサイザー、キーボード、ボーカル、ギター、ベース |
活動期間 | 1970年 - 現在 |
レーベル | アイランド、ポリドール、E.G、オブスキュア、Opal、ヴァージン、Astralwerks、All Saints、ライコディスク |
共同作業者 |
フリップ&イーノ ハルモニア ポーツマス・シンフォニア ロキシー・ミュージック 801 U2 デヴィッド・ボウイ トーキング・ヘッズ ディーヴォ コールドプレイ ロジャー・イーノ |
公式サイト |
brian-eno |
アンビエント・ミュージック(環境音楽)を開拓した第一人者として知られている。デヴィッド・ボウイ、トーキング・ヘッズ、U2などのアルバムのプロデューサーとしても名を馳せた。
実弟は、同じ分野で活動するロジャー・イーノ。
サフォーク州ウッドブリッジ生まれ[1]。郵便職員の父とベルギー移民の母の二番目の子供として生まれた。出生名はBrian Peter George Eno。ローマ・カトリック教会の修道会であるラ・サール会が経営する学校に通わされ、堅信名Brian Peter George St. John le Baptiste de la Salle Enoを与えられた[1]。
少年時代の彼はアメリカのポップ・ミュージックに夢中になる一方[注釈 2]、音楽だけでなく音響(サウンド)にも興味を持つようになった[2]。ティーンエイジャーになると、音色の違いに注意を向け、録音技術に興味を持ち始めた。1960年代の初めにテープ・レコーダーを手に入れると、まず彼は電燈のかさをペンで叩いた音を録音して、その再生速度を落とすとどのように聞こえるかという実験を行なった[3]。
1964年にThe Black Acesというバンドを結成して音楽活動を始め、1968年のクリスマスにはMaxwell Demonというバンドで4トラックのレコーディングを行なった。イプスイッチ・聖ジョセフ・カレッジ[注釈 3]とウィンチェスター美術学校に在籍し[4]美術を学ぶかたわら、電子楽器や音声理論に関心を抱き、音楽の方面に傾倒していった。Merchant Taylor's Simultaneous Cabinetという前衛音楽のバンドで活動したこともあった[4]。ウィンチェスター美術大学に在学中、大学で開かれた前衛音楽の催し物で、当時レディング大学の学生だった木管楽器奏者のアンディ・マッケイと知り合った。親しくなった2人はバンドを結成することも話し合ったが、実現しなかった[5]。
1969年に大学を卒業し、1970年にはポーツマス・シンフォニアにクラリネット奏者として加入した[6]。中古の電子機器のディーラーとして働いていたある日、電車の中で偶然マッケイに再会した。マッケイは1969年にエレクトロニック・ミュージック・スタジオズが開発した最新機器のVCS3シンセサイザーを持っていて[7]、1970年の冬にブライアン・フェリーが出したキーボーディストの募集広告に応募して、フェリーとベーシストのグラハム・シンプソンと3人で演奏したり曲を書いたりしていた[1]。
イーノはマッケイに誘われて、1971年1月にテクニカル・アドバイザーとしてフェリーたちに合流し、やがてテープとVCS3シンセサイザーを操作する役割を担うべくメンバーになった[8]。彼等はドラマーとギタリストを迎えてバンドの体裁を整え、ロキシー・ミュージック(Roxy Music)と名乗り[8]、1972年2月14日にE. G. レコードを運営するE. G. マネージメントと契約した[9]。
グラム・ロックの全盛期にデビューしたロキシー・ミュージック[注釈 4]は、アルバム『ロキシー・ミュージック』(1972年)と『フォー・ユア・プレジャー』(1973年)を発表し、特異な音楽スタイルと奇抜なファッションで瞬く間に成功を収めた。中でもイーノの存在は俄然注目を集め、彼はメンバーで一番の人気者になった。ロキシー・ミュージックの主導権を握っていたのはフェリーで、彼が全ての楽曲を一人で書いていたが、女装さながらのきらびやかな衣装をまとってステージでテープとVCS3シンセサイザーを操作するイーノの存在感は、キーボードを弾きながら歌うフェリーのそれを上回った[10]。
1973年7月8日、ロキシー・ミュージックはヨークのヨーク・ミュージアム・ガーデンズで開催されたミュージック・フェスティバルに出演した。会場では、報道陣が前年にイーノが始めたキング・クリムゾンのロバート・フリップとの共同活動(下記参照)について彼に質問を浴びせた。フェスティバルでは以前イーノが在籍していたポーツマス・シンフォニアがロキシー・ミュージックの前に出演し、当時彼等と活動していた[11]イーノも共演した。フェスティバルの聴衆の一部は明らかにイーノ目当てで、ロキシー・ミュージックのメンバーとして登場したイーノの名を連呼し続け、その余りの喧騒に彼は一旦ステージを退いた程だった[12]。
既に自分の立場が脅かされていると感じていたフェリーは、フェスティバルの終了後にマネージメントに対して、もうイーノとは仕事しないと宣言した。数日後、イーノはマネージメントに呼び出され、自分はもはやロキシー・ミュージックのメンバーではないことを通知された[12][13][注釈 5][注釈 6]。
イーノはロキシー・ミュージックに在籍していた1972年、マッチング・モウルのセカンド・アルバム『そっくりモグラの毛語録』に客演してシンセサイザーを演奏した。この時、同アルバムのプロデューサーを務めたフリップと意気投合し、同年9月にイーノの自宅のスタジオで「ヘヴンリー・ミュージック・コーポレーション」を録音。ロキシー・ミュージックを去った直後の1973年8月に「スワスティカ・ガール」を録音して、両曲を収録したアルバム『ノー・プッシーフッティング』(1973年)をフリップ&イーノの名義で発表した[14]。その後も同名義でインストゥルメンタルが主体のアルバムを数作発表した。
ソロ名義では『ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッツ』(1974年)、『テイキング・タイガー・マウンテン』(1974年)と独特なロックアルバムを発表した。それ以降は前衛的な現代音楽、ニューエイジ的な作風を採用するようになる。のちの『アナザー・グリーン・ワールド』(1975年)、『アンビエント1/ミュージック・フォー・エアポーツ』(1978年)に至っては、グラム・ロック的な派手さが影を潜め、前衛音楽の影響やアンビエント的な作風が強く見られる。
ソロ活動と並行して、ロキシー・ミュージックのギタリストであるフィル・マンザネラ、旧西ドイツで活動していたクラスターのメンバーなどと作品を制作して、マニアックなサウンドが求められた当時の音楽シーンに大きな影響を与えた。特に知られるところではデヴィッド・ボウイのアルバムである「ベルリン三部作」(『ロウ』『ヒーローズ』『ロジャー』)の制作に参加したことが挙げられる。
また、アンビエント音楽の世界では、ハロルド・バッドやジョン・ハッセル、ダニエル・ラノワなどの才能を次々と発掘して、ロックの枠組みに収まりきらない音楽業界への貢献を続けた。
その後も同傾向の作品を発表し続けながら、1980年代のロックの新たな動きにも関心を持ち、デヴィッド・ボウイ、トーキング・ヘッズ、U2などのアルバムにも、プロデュースや演奏などで参加し、ニューヨークのアンダーグラウンド・シーンのコンピレーションアルバム『ノー・ニューヨーク』をプロデュースするなど、その後のアーティストやシーンに影響を与える。その他にも、視覚芸術のインスタレーション作品などにも積極的にも参画している。21世紀に入ってからも、ポール・サイモンやコールドプレイのアルバム制作に参加した。
1974年6月1日、ロンドンのレインボウ・シアターで、ケヴィン・エアーズ、ジョン・ケイル、ニコとコンサートを開催。この模様はライブ・アルバム『悪魔の申し子たち〜その歴史的集会より』(1974年)として発表された。
1976年8月、フィル・マンザネラ(ギター)、ビル・マコーミック[注釈 7](ベース、ヴォーカル)、フランシス・モンクマン[注釈 8](フェンダー・ローズ・ピアノ、クラビネット)、サイモン・フィリップス(ドラム、リズムジェネレーター)、ロイド・ワトソン(スライドギター、ボーカル)と、一時的なプロジェクトである801を企画した[注釈 9]。彼等は同月26日にノーフォーク、28日にレディング・フェスティバル、9月3日にロンドンのクイーン・エリザベス・ホールでコンサートを開催して高い評価を得た。9月3日のクイーン・エリザベス・ホールでのコンサートの模様は、同年11月にライヴ・アルバム『801 ライヴ』として発表された。
マイクロソフト社のオペレーティングシステム、「Windows 95」の起動音「The Microsoft Sound」は彼の作曲によるものである。「The Microsoft Sound.wav」のプロパティには彼の名が記されている。「CHRONICLE POP MUSIC CRITIC」誌の1996年のインタビューによると、マイクロソフトからの依頼は「人を鼓舞し、世界中の人に愛され、明るく斬新で、感情を揺さぶられ、情熱をかきたてられるような曲。ただし、長さは3秒コンマ25」であったという。当時新しいアイデアが思い浮かばずに悩んでいた彼は、これを「待ち望んでいた課題だ」と快諾し、製作にとりかかった。最終的に84個のごく短いフレーズが製作され、その中の一つが「The Microsoft Sound」として提供された。ちなみに、親友ロバート・フリップは後年、Windows OSの後継ソフトである「Windows Vista」のサウンドを担当している。
なお、BBCラジオ4の番組"The Museum of Curiosity"でイーノは、この曲はMacintoshで製作したことを明かし、「私は今までに一度もPCを使ったことがない。PCは好きじゃない」と述べた[15]。
オブリーク・ストラテジーズ(Oblique Strategies)[16]は、イーノとピーター・シュミットが共同で制作したカードセット。それぞれのカードに異なる文やフレーズが印刷されている。例は以下の通り。
使用法としては、カードをよく切り、その中から1枚だけ選ぶ。そのカードに記載の文を自分なりに解釈し、自らの創作活動に活用するというものである。現在Enoshopで販売されているものは第5版である。
このカードセットは、彼のソロ作品やボウイの『ベルリン三部作』、近年では彼がプロデュースしたコールドプレイの『美しき生命』で使用された。
近年のイーノにはリベラル・左派の立場をとる傾向が見られる。2014年のガザにおけるイスラエルの軍事行動に対して、トゥトゥ、ノーム・チョムスキー、アリス・ウォーカーらと共に批判をおこなった。2015年の労働党党首選挙では、左派のジェレミー・コービンを支持する意見をリベラル系の『ガーディアン』紙に寄稿した。
他方、ロジャー・ウォーターズが彼の反ユダヤ思想を口実にドイツ公演を中止させられた時には、彼を擁護する抗議行動に署名した。
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