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ケヴィン・エアーズ(Kevin Ayers、1944年8月16日 - 2013年2月18日)は、イングランド、ケント州ハーン・ベイ出身の作曲家、シンガー。初期のイギリス・サイケデリック・ムーブメントや、カンタベリー・ミュージックに深く関わった人物。
ケヴィン・エアーズ Kevin Ayers | |
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ケヴィン・エアーズ(ハイド・パークにて。1974年) | |
基本情報 | |
生誕 |
1944年8月16日 ケント ハーン・ベイ |
死没 |
2013年2月18日(68歳没) モントリュー |
ジャンル |
サイケデリック・ロック ポップス 実験音楽 プログレッシブ・ロック |
職業 |
作曲家 シンガーソングライター プロデューサー |
担当楽器 | ボーカル、ギター、ベース |
活動期間 | 1960年代 - 2013年 |
レーベル |
アイランド・レコード ハーヴェスト・レコード ヴァージン・レコード |
共同作業者 | ソフト・マシーン |
1960年代に於けるサイケデリック・バンド期のソフト・マシーンの創設者の一人であり、バンドではベースとボーカルを担当した。ソフト・マシーン脱退後はソロに転じ、独特のバリトンボイスを聴かせた。ソロのバックバンドでは、マイク・オールドフィールドが在籍していたことでも有名。
ケント州出身。6歳の時に家族とともにマレーシアに移住して、12歳まで暮らした。
帰国後、ケント州に戻ってエセックスのハイスクールに進学したが、16歳で中退して放浪の旅に出た。バンドに加入して音楽活動を始めるまで、スペインのイビサ島やマヨルカ島、モロッコなどを何度となく放浪した。旅先で身に着けた無国籍的な感性は、彼の音楽をニュアンスに富んだものにしたと言われる。
18歳の頃にマリファナを巡るトラブルからロンドンを離れ、州都カンタベリーに居住した。ロバート・ワイアットの母親が経営する下宿屋「ウェリントン・ハウス」に寄宿し、ワイアットやマイク・ラトリッジらと出会う。互いの才能に触発された彼らは、1964年にワイルド・フラワーズを結成。
1966年、エアーズとワイアット、ラトリッジはデヴィッド・アレンを迎えてソフト・マシーンを結成。エアーズはメンバーとして再びロンドンに拠点を戻した。彼等は、サイケデリック・シーンにおいて大きな注目を浴びた。
1968年、ソフト・マシーン[注釈 1]はザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスの前座でアメリカ・ツアーを二度行うが、このツアーで精神を消耗したエアーズは、1968年12月に脱退。ベース・ギターをザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのミッチ・ミッチェルに売り払うと、ガールフレンドとともに再びイビサ島へと隠遁する。
同島で自分のペースを取り戻すと、よりシンプルなソングライティングの才能を発揮し始め、1969年にアルバム『おもちゃの歓び』でソロ・デビュー。以降、バンド形態の「ザ・ホール・ワールド」やソロ名義でコンスタントにアルバムリリースを続け、一部に根強いファン層を開拓した。アンディ・サマーズ[1][2][注釈 2]、オリー・ハルソールとも活動。エアーズの片腕として知られるようになったハルソールとの関係は、1974年から彼が1992年に死去するまで続いた。
1974年6月1日、ロンドンのレインボウ・シアターで、ブライアン・イーノ、ジョン・ケイル、ニコとコンサートを開催。この模様はライブ・アルバム『悪魔の申し子たち〜その歴史的集会より』(1974年)として発表され、ワイアットやマイク・オールドフィールドらゲストの参加が話題を呼んだ。
1990年代の中頃、イビサ島からイギリスに戻り、その後フランス南部に移って、終生を現地の住居で過ごした。最後の作品は、2007年9月リリースの『アンフェアグラウンド』である。
2013年2月18日、フランスの自宅で死去。68歳没。枕元には「燃えないと、輝くことはできない」というメモがあったという。
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