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1987年のF1世界選手権
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1987年のF1世界選手権(1987ねんのエフワンせかいせんしゅけん)は、FIAフォーミュラ1世界選手権の第38回大会である。ブラジルのジャカレパグア・サーキットで開幕し、最終戦のオーストラリアのアデレード市街地コースまで、全16戦で争われた。
1987年のFIAフォーミュラ1 世界選手権 |
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前年: | 1986 | 翌年: | 1988 |
一覧: 開催国 | 開催レース |

シーズン概要
要約
視点
「4強+1」





翌年にターボ(過給)エンジン世代最後のシーズンを迎える事もあり、レギュレーションによりターボ車は積載燃料が195リッター、国際自動車スポーツ連盟(FISA)より支給・装着が義務づけられたポップオフバルブにより、過給圧は4バールに制限された。反対に2年ぶりに使用が解禁されたNA(自然吸気)エンジンの排気量が3,500ccに引き上げられ、性能の格差縮小が図られた。一足先にNAエンジンへ転向するチームもあったが、上位チームは全てターボエンジン搭載車で占められていた。
シーズン序盤戦はマクラーレン・TAGポルシェのアラン・プロストとロータス・ホンダのアイルトン・セナが2勝を分け合いポイント争いをリード。中盤戦以降は連勝したウィリアムズ・ホンダのネルソン・ピケとナイジェル・マンセルのほぼ一騎討ちという様相を見せた。マンセルがポールポジション8回・優勝6回と最速ながらリタイアも多かったのに比べ、ピケは優勝3回ながら2位7回という安定感でポイントリードを広げた。
ドライバーズタイトル争いはシーズン終盤までもつれ、マンセルが連勝すれば逆転の可能性もあった。だが、日本GPの予選でマンセルがクラッシュし同レースを欠場することが決まったことで、自動的にピケの1981年と1983年に続く3度目のドライバーズタイトルが決定した。
プロストはポルトガルGPでジャッキー・スチュワートのF1最多勝記録を16年ぶりに更新する通算28勝目を挙げた。
フェラーリは開幕から速さはあったが、シーズン中盤まではこの年からVバンク角が変更されたニューエンジン関連のトラブルが多くポイントを積み重ねられなかった。第9戦ハンガリーGPでゲルハルト・ベルガーが予選2位とセッティングの方向性を見出したのを機に調子が上向き、第13戦ポルトガルGPでは終盤スピンで勝利を逃したものの予選からレースを支配した。第15戦日本GPではベルガーがフェラーリにとって2年半ぶりの優勝をもたらすと、続く最終戦オーストラリアGPも完勝での2連勝を記録。「4強(プロスト、セナ、ピケ、マンセル)+1(ベルガー)」の時代を迎えた。
ホンダエンジンの活躍
前年に安定したパフォーマンスを見せたホンダエンジン搭載車がこの年も強さを見せ、ウィリアムズとロータスの両チーム併せて11勝を挙げた他、イギリスGPでは初の決勝1-4位独占(マンセル、ピケ、セナ、中嶋)、イタリアGPでは決勝1-3位(ピケ、セナ、マンセル)を達成する等、表彰台の常連となった。ウィリアムズは前年の傑作マシン、FW11を熟成させたFW11Bで9勝を挙げ、シーズンを圧倒。2位に61点差をつけてコンストラクターズタイトルを連覇した。
ロータスはアクティブサスペンションの熟成に手間取りながらも、セナが得意とする公道コース(モナコGPとアメリカGP)で2勝を挙げた他、中嶋もデビューイヤーの上にアクティブサスペンションやエンジンを起因とする多くのマシントラブルに襲われたほか、予選では中団に沈むことが多かったにもかかわらず、シーズン当初から堅実にポイントを稼いだ。
この様にホンダエンジンとウィリアムズとのコンビは活躍を見せたものの、イタリアGP期間中に、ホンダは翌1988年のエンジン供給先はロータスとマクラーレンとなることを発表した。1984年以降続いたウィリアムズとの契約は、1年を残して打ち切られることとなった[1][2]。
アクティブサスペンション
車体姿勢を油圧制御で保持するアクティブサスペンションが本格的に実戦投入された。ロータス(シーズン全戦)とウィリアムズ(イタリアGP・ポルトガルGP)が使用し計3勝を挙げたが、システムの重量や信頼性など熟成不足による課題も多く、ウィリアムズがわずか2戦のみしか使用しなかったように、この時点では他チームに普及するまでに至らなかった。
ロータスのセナが得意な市街地コースではいいところも見せたが、油圧が抜けて亀の子状態になるケースや、コンピュータのトラブルで4輪がそれぞれ別の方向に動くなどのトラブル(両方とも中嶋車)が起き、結局ロータスはこの年限りで、ウィリアムズも翌年中盤に従来のパッシブサスペンションに戻した。
中堅チーム
ベネトンはBMWからフォードのターボエンジンにスイッチし、ロリー・バーン作の空力処理に優れたB187でテオ・ファビとティエリー・ブーツェンのコンビが好パフォーマンスを見せ、3位表彰台2回とファステストラップ1回を獲得した。優勝こそなかったが、第14戦メキシコGPでは序盤から中盤までブーツェンが首位を快走した。翌年以降、フォードからワークス待遇でエンジン供給を受けることになる。
アロウズやブラバム、リジェなどの中堅チームも全てターボエンジンを搭載し、デレック・ワーウィックやエディ・チーバー、ルネ・アルヌーやリカルド・パトレーゼ、アンドレア・デ・チェザリスやピエルカルロ・ギンザーニなどの高い経験値を持つドライバーを擁した。
上位チームがリタイアしたレース(第3戦ベルギーGP・第14戦メキシコGP)でブラバムが3位表彰台2回を獲得するほか、予選では中嶋やヨハンソンを食うことも多かったが、シーズン全般的には3チームともに速さ、信頼性が不足しており、上位チームを脅かすまでには至らなかった(ブラバム:入賞3回・獲得ポイント数10 アロウズ:入賞6回・獲得ポイント11 リジェ:入賞1回・獲得ポイント1)。特にこの年低迷したリジェは、そのまま低迷期を迎えることとなった。
下位チーム
ミナルディやザクスピード、オゼッラなどの、ターボエンジンを搭載するものの下位を定位置とするチームも参戦を続け、第2戦サンマリノGPではマーティン・ブランドルがザクスピードで5位、2ポイントを獲得。これは1989年まで参戦したザクスピードにとって唯一のF1でのポイント獲得となった。ミナルディのアレッサンドロ・ナニーニなどの翌年以降他チームで開花する若手ドライバーが光るところを見せたものの、速さや信頼性不足のためにいずれもポイント獲得はならなかった。
自然吸気エンジン向けタイトル
なお、1987年の1年限りの実施であったものの、自然吸気エンジンを使用するチームとドライバーを対象とした別規定賞典として「ジム・クラーク・トロフィ」(ドライバー向け)と「コーリン・チャップマン・トロフィ」(コンストラクターズ向け)が制定されている。これは、1989年からの過給禁止レギュレーションへの準備段階として、先に自然吸気エンジンを使用するチームとドライバーへの救済措置であったが、翌年は両者の性能差が少なくなった為に実施されなかった。
なお、ジム・クラーク・トロフィは安定した走りで数回ポイント圏に食い込んだティレルのジョナサン・パーマーが、コーリン・チャップマン・トロフィはマーチやラルース・カルメル、AGSなどとの戦いを制したティレルが獲得した。
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開催地及び勝者
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エントリーリスト
1987年のドライバーズランキング
要約
視点
ドライバーズポイントは1位から順に6位まで 9-6-4-3-2-1 が与えられた。ベスト11戦がポイントランキングに数えられた。
ジム・クラーク・トロフィー
- 自然吸気エンジンのドライバーズタイトル
*ポイント無効(ローラは1カーエントリー登録のため、追加された2台目で参戦したダルマスに選手権ポイントは与えられなかった。)
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1987年のコンストラクターズランキング
要約
視点
コンストラクターズポイントは1位から順に6位まで 9-6-4-3-2-1 が与えられた。ドライバーズタイトルとは異なり全戦がカウントされた。
† ローラは1カーエントリー登録のため、追加された2台目で参戦したダルマスに選手権ポイントは与えられなかった。
コーリン・チャップマン・トロフィー
- 自然吸気エンジンのコンストラクターズタイトル
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トピック
- 中嶋悟がロータス・ホンダより日本人初のフル参戦を行なったことや、1977年以来10年ぶりとなるF1日本グランプリが鈴鹿サーキットでが開催されたこと、フジテレビジョンによる全戦テレビ中継が開始されたことから、バブル景気に沸く日本において「F1ブーム」が始まることとなった。
- 日本の不動産企業「レイトンハウス」がメインスポンサーとなり、マーチがF1に復帰した。なお同社はその後マーチを買収することになる。
- F1用シャシーの開発が間に合わなかったレイトンハウス・マーチは、開幕戦ブラジルGPをF3000シャシーにF1用エンジンを搭載した暫定マシンで出走した。このマシンは第3戦ベルギーでは決勝レースを走った[6]。またエンジンも序盤ではF1用3500ccのDFZがチームに1基しかない場合もあり、急遽手配した耐久レース用の3300ccエンジン(コスワース・DFL)で出走した公式セッションがあった[7]。
- 中嶋のマシンにのみシーズンを通じてFOCA映像配信用の車載カメラがテスト的に搭載されたが、重量バランスや空力に悪影響を与える結果となり、1989年から使用される空力に悪影響を与えにくい形状の車載カメラを開発することになったほか、車載カメラを搭載しないマシンには同重量のバラストを搭載するなど以後のレギュレーション整備がされることになった。
- イギリスGPでは多くのドライバーがマシントラブルでリタイヤする中、中嶋は2周遅れながら4位に入賞し、ホンダの1・2・3・4フィニッシュの一端を担った(同僚のセナも1周遅れの3位に入った)。中嶋は前年にシルバーストーンでF3000のレース経験があった為、それまでとは違う「序盤から飛ばして燃費のことは後で考える(本人談)」作戦を採った。中嶋自身のベストラップは最終盤の残り3周のタイミングで記録されたが、ホンダの桜井淑敏は「レース終盤で燃料セーブのためにペースを落としトップのネルソン・ピケに抜かせたことで2周遅れにならなければ、燃料が足りずフィニッシュライン300m手前で止まってしまい完走できなかっただろう」と述べた。
→詳細は「1987年イギリスグランプリ」を参照
- オーストリアGPの1日目フリー走行中、野生のシカが侵入しコースを横切り、ステファン・ヨハンソンが運転するマクラーレンと衝突する事故が発生。速度はおよそ280km/h出ていたためマシンは全損、ヨハンソンは肩の打撲と肋骨骨折を負った[8]。シカは絶命していた。決勝ではスタート直後にホームストレートで多重クラッシュが発生し再スタートが行われた。2度目のスタート直後にも同様の事故が起き、再度の再スタートが行われるなど、事故が相次いだ。オーストリアGPはこの年を最後に、1997年まで中断された。
- 第14戦メキシコGPから第16戦オーストラリアGPまでの遠征ではミナルディが財政状況からスペアカーを持ち込めず、2台のレースカーのみを運搬した。これはメキシコ-日本-オーストラリアの3連戦で1台当たり120万円の輸送費がかかり、これを輸送の実務担当であるFOCAに支払えなかったための策だった。ミナルディは鈴鹿でタイヤ用のバーニングヒータ(保温庫)に使う航空機燃料を購入する費用も苦しかったため、より安価で済むヘリコプター用燃料で代用するほど倹約していた[9]。
- 6月から9月にかけて、2シーズン前まで参戦していたRAMの創設者ジョン・マクドナルドが新たにマネージャーとして活動しているミドルブリッジ・インターナショナル・レーシングのF1参戦計画が報じられ、ドライバーにエマニュエル・ピロ、1年型落ちとなるベネトン・B186を使用し第11戦イタリアGPからの4戦に出場することが決まり[10]、J.マクドナルドが奔走しコンコルド協定でスタートグリッドが27台になる同意も得られ全チームの承認サインもなされていた。また第15戦日本GPでは鈴木亜久里を2台目のドライバーに起用する構想もあった。メインスポンサーにはトラサルディがつき白と黒のツートンカラーリングを施したB186の披露も済まされ準備万端であった。しかし第10戦オーストリアGPでの多重クラッシュで2度スタートがやり直しになったことを理由に、一度は参戦を承認したFISAが「安全面を考慮するとスタート台数を増やすのは妥当ではない」としてミドルブリッジおよびピロのF1参戦を認めない方針に転換する騒動があった[11]。なお、このミドルブリッジ計画ではメガトロン・バッジではなくBMWとしてエンジン供給することになっていたため、同シーズン唯一のBMWユーザーだったブラバムのバーニー・エクレストンは参戦承認サインはしたものの不服だったという[12]。
- この年F1決勝レースにデビューした主な選手は中嶋悟、ガブリエル・タルキーニ、ロベルト・モレノ、ステファノ・モデナ、ヤニック・ダルマス。その一方でベネトンのテオ・ファビはこの年限りでF1から去り、マシン開発手腕を買われてアメリカのチャンプカー・ワールド・シリーズのポルシェエンジンプロジェクトに移ることとなった。
- この年限りでポルシェとBMWがターボエンジン供給を終了した。ポルシェは上記のようにチャンプカー・ワールド・シリーズのエンジンプロジェクトへと移り、BMWベースのメガトロンターボはアロウズへのエンジン供給を翌年も続けた。
- BMWエンジンを失うこととなったブラバムチームが、この年の最終戦を最後に1989年開幕戦までの1シーズン活動停止した。
- この年初めて日本GPを開催することになった鈴鹿サーキットは、F1開催に向けてコースレイアウト変更やピットエリア、グランドスタンドの改修を行った上に、大きな問題もなくレース運営を行ったことから、FIAより「ベストオーガナイザー賞」を授与された。
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脚注
外部リンク
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