岡寺
奈良県明日香村にある寺院 ウィキペディアから
奈良県明日香村にある寺院 ウィキペディアから
岡寺(おかでら)は、奈良県高市郡明日香村岡にある真言宗豊山派の寺院。山号は東光山。院号は真珠院。本尊は日本最大の塑像である如意輪観世音菩薩(如意輪観音)。龍蓋寺(りゅうがいじ)とも称し(後述)、詳しくは東光山真珠院龍蓋寺というが[1]、宗教法人としての名称は岡寺である[2]。また、日本最初の厄除け霊場でもある[2]。西国三十三所第7番札所[1]。
本尊真言:おん はんどめい しんだまに じんばら うん
ご詠歌:けさみれば露(つゆ)岡寺の庭の苔 さながら瑠璃(るり)の光なりけり
『東大寺要録』「義淵伝」、『扶桑略記』等によれば、当寺は天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子の住んでいた岡宮の跡に、義淵僧正によって堂舎が創建されたのがその始まりであるという[2]。この時、同時に龍門寺なども建立された。史料上の初見は、天平12年(740年)7月の写経所啓(『正倉院文書』)である[3]。
現在の寺域は明日香村の東にある岡山の中腹に位置し、そのために飛鳥の岡にある寺ということで岡寺と呼ばれるようになったのだが[2]、寺の西に隣接する治田神社(はるたじんじゃ)境内からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が発掘されており、創建当時の岡寺は現在の治田神社の位置にあったものと推定されている。かつての岡寺の跡地は2005年(平成17年)に「岡寺跡」として国の史跡に指定されている。
また、義淵がこの地の民を苦しめていた悪龍を当寺の池(現・龍蓋池)に封印して石で蓋をし、悪龍の厄難を取り除いて以来、当寺は「日本最初のやくよけ霊場」となり[2]、鎌倉時代にはすでにその信仰が広まっていた。
義淵僧正は日本の法相宗の祖であり、その門下には東大寺創建に関わった良弁や行基などがいた。それゆえ長らく法相宗の興福寺の末寺であった。しかし、江戸時代に長谷寺化主(住職)の法住が入山して当寺を復興し、中興第一世となって以降は長谷寺の末寺となり真言宗豊山派に属している[2]。
埋蔵文化財の宝庫といわれる明日香村において建造物で唯一、重要文化財に指定されているのは、当寺の仁王門と書院だけである[4]。
前述のように、当寺院には「岡寺」「龍蓋寺」の2つの寺号がある。「岡寺」は地名に由来する寺号、「龍蓋寺(りゅうがいじ)」は建立当初の正式名であり、現・法号である。仁王門前の石柱には「西国七番霊場 岡寺」とあり、通常はもっぱら「岡寺」の呼称が用いられている。宗教法人としての登録名も「岡寺」である[2]。そのため、重要文化財建造物の指定名称は「岡寺仁王門」「岡寺書院」となっている。「龍蓋寺」の法号は龍蓋池に封じた龍の説話に由来する。
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