Loading AI tools
栃木県真岡市にある仏教寺院 ウィキペディアから
専修寺(せんじゅじ)は、浄土真宗10派のうちの一つである真宗高田派の寺院。本寺専修寺と本山専修寺がある。本山の住職が本寺の住職を兼任している。「専修寺」の名の由来は浄土系宗派の特徴である専修念仏に基づいている。
専修寺(せんじゅじ)は、栃木県真岡市高田にある真宗高田派の本寺の寺院。山号は高田山。本尊は善光寺式阿弥陀三尊(一光三尊仏)。本寺専修寺と呼ばれている。
嘉禄元年(1225年)、浄土真宗の開祖である親鸞が、関東各地の教化に入って十余年、真岡城主大内国行の懇願により建てられた寺院と伝えられる。また、『親鸞聖人正統伝』によれば親鸞が「般舟石(はんじゅせき)」の上で野宿をしていた時に、童子の姿をした明星天子が現れてこの地に寺院を建立するようにいったという。その際、信濃国善光寺の本尊である秘仏を模した善光寺式阿弥陀三尊(一光三尊仏)を善光寺より迎えて本尊とした。その為、親鸞が建立した唯一の寺だとされている。その後、二十四輩の第二番であり、親鸞門弟の有力者の一人であった真仏が管理に当たっていたものと推定されている。
翌嘉禄2年(1226年)には、後堀河天皇から「専修阿弥陀寺」という勅願寺の綸旨を受け、親鸞の教化活動は遊行から本寺中心に変わり、建立後約7年間この寺で過ごしたとしている。このように、本寺は東国における初期の浄土真宗の教団活動上重要な役割を果たした寺である。真仏を中心とした門徒衆は、関東各地の門徒が作る教団の中で最も有力な教団「高田門徒(現・真宗高田派)」を形成し、京都へ帰った親鸞からしばしば指導の手紙や本人が書き写した書物などが送られている。
同じ浄土真宗の教団の中では、大谷廟堂(後の本願寺)が応長2年(1312年)に「専修寺」の額を掲げたが、延暦寺の反対により撤去している。長らく衰微していたものの15世紀半ばごろに本願寺第8世蓮如によって「本願寺教団」として急速に勢力を拡大していった。また、三門徒派専照寺も建立当初は「専修寺」と号していた[1]。当寺が「専修寺」を名乗り始めたのは室町時代のようである。
専修寺を再び飛躍させたのが、東海・北陸方面に教化を広めた第10世真慧(しんね)であった。真慧は下野国の有力領主であった宇都宮正綱の庇護を受け、その子である宇都宮成綱・塩谷孝綱兄弟も真慧没後の住持不在時にもこれを手厚く保護している[2]。また、この頃に専修寺は延暦寺東塔の末寺となっている。
だが、永正9年(1512年)10月に真慧が亡くなると、真慧の妻の連れ子である応真(富樫政親の子)派と、常盤井宮家出身の養子である真智(後柏原天皇の猶子)派で争いが勃発する。その最中、本寺専修寺は大永6年(1526年)に兵火によって炎上し、荒廃した。その為に真慧が伊勢国に建てた一身田無量寿院が本山とされ、本山専修寺となっていった。
本寺専修寺の伽藍は江戸時代に入って再建され、本尊の一光三尊仏は今もここに安置されている。
本寺専修寺の北東約200mの場所に当寺ゆかりの「般舟石」があり、また、南東およそ2kmの所に、専修寺造営中に親鸞が仮住居としていたと伝えられる「三谷草庵」が復元されている。
専修寺(せんじゅじ)は、三重県津市一身田町にある真宗高田派の本山の寺院。山号は高田山。本尊は「証拠の如来」と呼ばれる阿弥陀如来。本山専修寺、一身田専修寺と呼ばれている。
伊勢国の門徒の要請もあり、また、新たな布教の拠点とする為に専修寺第10世真慧が文明年間(1469年 - 1487年)に無量寿院として創建する。文明10年(1478年)には朝廷の尊崇を得て、「この寺を皇室の御祈願所にする」との後土御門天皇綸旨(専修寺文書第29号)を得ることに成功している。
下野国高田の本寺が大永6年(1526年)に兵火によって焼失し、また教団が応真派と真智派に分かれて争い、無量寿院住持の応真が第11世となったことから次第にここが教団の中枢となり、やがて本山専修寺と呼ばれるようになった。数多くある親鸞の真筆類もここへ移され、親鸞の肖像をはじめ、直弟子などの書写聖教など貴重な収蔵品を多数保持している。
江戸時代の正保2年(1645年)1月、大火で全山全焼してしまう。しかし、万治元年(1658年)に津藩第2代藩主藤堂高次から土地の寄進を受け、寛文6年(1666年)から御影堂の再建に着手、延宝7年(1679年)に完成した。その際、他の浄土真宗の本山寺院である西本願寺や東本願寺、佛光寺のように主な堂を東面させて建てるのではなく、門徒の意見通りにこれまで通りの南面形式での再建となった。それは、東からの伊勢湾の風が強かったこと、境内地が東西の横長に広がっていたこと、南側に幹線道路があるからなどが理由となっている。
浄土真宗最大宗派の東西本願寺に匹敵する広大な境内を持ち、周囲は寺内町を形成している[5]。
2018年(平成30年)にはドラマ「MAGI天正遣欧少年使節」のロケが行われた。境内の建物でロケが行われたのは、長い歴史の中でも初めてである[6]。2020年公開の映画「浅田家!」でも、専修寺でロケが行われた[7]。近年御影堂と阿弥陀堂が三重県下初の国宝に指定された。
寛正6年(1465年)、天台宗の延暦寺は正月早々に以前から対立していた本願寺第8世蓮如を「仏敵」とし、延暦寺西塔の衆徒が一斉に大谷本願寺を襲って破却し、3月になると再び本願寺を破却した(寛正の法難)。そんな中、延暦寺は高田派と本願寺派との違いがあまり理解できなかったのか、高田派を本願寺派と同一視して敵視してきた。そのために7月になって真慧は比叡山に登り、専修寺門流(高田派)は無碍光流(本願寺派)とは全く別であることを陳述した。さらに寺伝によると、その理解を得ようと7日間にわたって親鸞の教えである浄土真宗の教義を講義したところ比叡山中の僧侶が感動し、真慧は親鸞聖人の再来ではないのかとの噂まででた。こうして、高田派こそ浄土真宗の正統だと認められ、円仁(慈覚大師)が一刀三礼で彫り上げた阿弥陀如来立像を延暦寺から譲られたとする(証拠如来縁起)。以来、この「証拠の如来」と呼ばれている阿弥陀如来像は一身田本山専修寺の本尊となっている。
出典:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
真宗高田派専修寺(およびその末寺)では他の真宗教団と異なり歎異抄を聖典として用いていない(否定しているわけではないことに要注意)。これは「専修寺には親鸞聖人の真筆文書が多数伝来しており、弟子の聞き書きである歎異抄をあえて用いる必要性が薄い」との考えによるものである。なお、専修寺は現存している親鸞の真筆文書の4割強を収蔵しており、これは東西本願寺よりも多い数である。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.