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かつて日本の静岡県藤枝市と袋井市を結んでいた静岡鉄道の鉄道路線 ウィキペディアから
駿遠線(すんえんせん)は、かつて静岡県中部、藤枝市の大手駅から新藤枝駅(東海道本線藤枝駅前)を経由し、駿河湾西岸、御前崎付近及び遠州灘北東岸を回って袋井市の新袋井駅(東海道本線袋井駅前)を結んでいた静岡鉄道の鉄道路線である。大手駅 - 新藤枝駅 - 地頭方駅間の藤相線と、池新田駅(後の浜岡町駅) - 新袋井駅間の中遠線をつないで全通した、軌間762mmの軽便鉄道で、線名は駿河国と遠江国を結ぶことから付いた。なお、大手駅 - 新藤枝駅間を大手線、駿河岡部駅 - 大手駅間を岡部線として区別することもある。
停車場・施設・接続路線[1] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元は藤枝からの藤相鉄道(とうそうてつどう[2])と袋井からの中遠鉄道(ちゅうえんてつどう[2])が、静岡電気鉄道(後の静鉄静岡清水線)など他の運輸事業者と戦時統合して静岡鉄道となり、戦後の1948年(昭和23年)にそれぞれ藤相線・中遠線となった両鉄道の末端部をつないで一本の路線としたものである。その結果、大手 - 新藤枝 - 新袋井は全長64.6kmと、軽便鉄道としては日本最長規模になった。
その複雑な生い立ちと長大さから、使用される車両も引き継ぎ車、静岡鉄道自社工場製を中心に種々雑多な路線であった。モータリゼーションの荒波に抗し切れず、また老朽化した大井川橋梁の架け替えに多額の費用を要することから、全通からわずか16年後の1964年(昭和39年)より区間廃止が始まり、1970年(昭和45年)7月31日限りで全線廃止、翌8月1日から代行バスに転換された。
※駿遠線全通時のデータ
藤枝は東海道五十三次以来の宿場町であったが、明治に入って開通した東海道本線の駅は街外れに設置された。加えて、当時東海道本線の乗り入れで活況を呈しはじめた焼津から南下して遠州川崎、相良、遠州横須賀を経由し中泉(現・磐田市)に至る軽便鉄道「駿遠鉄道」の構想があり、交通要衝からの転落に焦る藤枝にとって、この構想に打ち勝つことは正に焦眉の急の議題であった。
このため、藤枝の実業家である笹野甚四郎を始めとする藤枝町や志太郡内の有志が集まって軽便鉄道の建設を計画した。そこで駿遠鉄道に対抗すべく出願されたのが、藤枝と相良方面を結ぶ「藤相鉄道」である。1911年(明治44年)8月、藤相鉄道敷設認可を受けると、同年11月には笹野を初代社長とする藤相鉄道株式会社が創立された[3]。同時期に中遠南部でも、焼津の資本が進出してくることに危機感を覚えた地元住民により、小笠郡笠原村出身の県会議員である芝田庫太郎が中心となって袋井からの「中遠鉄道」を発起した[4]。1911年(明治44年)10月10日、発起人に藤相鉄道の笹野も協力して敷設特許を申請。1912年(明治45年)3月9日に敷設許可がおり、同年8月28日に中遠鉄道株式会社が創立される[5]。藤相・中遠とも、起点を駿遠鉄道計画の焼津に対して藤枝、磐田に対して袋井と換えている。
藤相鉄道の測量・工事は順調に進んだ。一方で1911年(明治44年)8月に鉄道免許状が下付[6]された駿遠鉄道は、かなり藤相鉄道と競り合ったものの社内の内紛などもあって測量もろくに行われず、1918年(大正7年)5月に免許失効[7]となり会社自体が消滅することになる。
藤相鉄道がまず手掛けたのは、藤枝駅と藤枝市街を結ぶ「大手線」区間で、1913年(大正2年)に開業した。
続く路線は東海道本線をオーバークロスし、大井川に迫るが、渡河予定地点は大井川河口に近く、川幅は約1kmあり、速やかな架橋は費用の上で困難だった。このため取り敢えず大井川の右岸(西側)である大幡 - 細江を1915年(大正4年)5月に先行開業し、大井川は徒歩連絡とした。その半年後には有料の人道橋・富士見橋を買収する形で大井川区間を人車軌道として「仮開業」するという、苦肉の策を打ち出している。この人車軌道区間の運行は制約が多く、続行運転の場合は7間(約21m)以上の間隔を空けることが義務づけられていた。また仮橋専属の巡視員を置き、桁の接合箇所を監視して常に安全状態を保つよう政府から求められていた。この区間は単線だったため、数両の続行運転をすると反対側からの運行は少なくとも30分は不可能になり、両側を運行する鉄道線のダイヤが乱れる要因ともなった。このため1918年(大正7年)には橋の中央部に交換用設備を設け、客車2両・貨車2両を待避の上限とする制約を課した上で上下線の交換を可能とした。
大井川架橋が難航する間にも、大井川の西側での路線延長ははかどり、遠州川崎町(後の榛原町)へ、さらに相良へと区間開業を重ねた。大井川の鉄道架橋(ただし道路併用橋)が正式に開業したのは、1922年(大正11年)の集中豪雨による富士見橋の流失をきっかけにした大正も末の1924年(大正13年)のことである。そして1937年(昭和12年)7月9日には鉄道専用橋も完成するが、後述するような不況の影響で資金が足りず、橋桁部分こそ鋼製だが橋脚は前時代的な木製だった。このため、橋梁上は通常で15km/h、強風時や増水時は5km/hの速度制限が課されており、さらに風雨の激しい時はこの区間を運休としてバスによる代行輸送を行っていた。
同じ頃、中遠鉄道も新袋井 - 新横須賀を開業させているが、こちらは沿線に越えるべき大河もなく、工事はスムーズであった。この後しばらく中遠鉄道の延長は途絶えるが、大正末期に南大坂へ延長し、また新袋井での国鉄との連絡を改善している。昭和に入って1927年(昭和2年)、新三俣まで延長され、戦前の中遠鉄道線は全通した。
藤相鉄道も1926年(大正15年)に地頭方まで延長しており、両鉄道の末端同士は15.3kmにまで迫った。
大正末期から日本各地ではバスの進出が著しく、蒸気機関車に頼っていた中小鉄道は苦境に立たされた。藤相・中遠両鉄道も例外ではなく、特に中遠鉄道は深刻であった。このため両社は相次いでガソリンカーを導入、速度の向上で業績好転を図った。気動車運転は好成績を収めるが、1929年(昭和4年)の世界恐慌後は両社とも再び業績が下降する。
やがて太平洋戦争下の1943年(昭和18年)に打ち出された戦時統制により、藤相・中遠両鉄道は、静岡電気鉄道、静岡乗合自動車、静岡交通自動車と共に戦時統合の対象となり、「静岡鉄道」が成立する。藤相鉄道と中遠鉄道は、それぞれ静岡鉄道の藤相線と中遠線となった。
終戦後、藤相線・中遠線沿線には都市部からの買い出し客が殺到した。元々農業・漁業とも盛んな地域のため、食糧は豊かであり、買い出し先として絶好だった。このため戦前の苦境が嘘のように、両線とも超満員が続いた。空襲の被害を受けなかったことから、車輌は確保されていたが、それでも客車・気動車を総動員しての車両不足状態だった。ただこの時期には激増する旅客輸送に対処することに精一杯で、売上を路線に対して投資できなかった。改軌や大井川橋梁の架け替えなど、懸案事項の着手に至らなかったことは、後の駿遠線の消長に大きく影響することになる。
この頃から両線を結ぶ構想が持ち上がった。形を変えた「駿遠鉄道」の実現である。両線とも軽便鉄道であって規格もそう違わず、戦争中軍が用いていた線路が同地帯にあったことから話は進み、区間開業を経て1948年に両線は結ばれ、新たに「駿遠線」と呼ばれることになった。なお旧・藤相鉄道は、1925年(大正14年)に大手から北東へ伸びて駿河岡部駅に達する延長を行なったが、同区間は11年間運行しただけで戦時合併前に廃止されているため、駿河岡部 - 大手と大手 - 新袋井は、同時には存在していない。
戦後の混乱が明け、日本の高度経済成長が始まると同時に、モータリゼーションが鉄道に襲いかかった。特に鉄道の利点である大量・高速輸送の点で欠陥を持つ軽便鉄道は脆く、1950年代後半から1960年代にかけ、次々に姿を消していった。
駿遠線の場合は、戦後に開通した区間の大部分が、沿岸部の砂丘地帯に敷かれた軍用軌道ルートを利用していたせいで既存集落から離れ過ぎて沿線人口が少なかった。また藤枝 - 袋井では遠回りな線形で東海道本線に比較すると遙かに時間がかかり(湯口徹によれば、開業当初5時間以上、その後のスピードアップを経ても3時間半を要したという)、運賃も高くついた。さらに、藤枝側の駿河地域と袋井側の遠州地域はもともと文化・経済圏が異なることから、沿岸部の農漁村相互での交通需要自体が少なかった。
更に1950年代以降、貨物輸送の主流はトラックへ移行し、1959年(昭和34年)に貨物輸送を関連会社の駿遠運送へ引き継ぎ[8]全廃した。また車輌運用を考慮しても全線維持は採算に合わなくなっていったため、1961年(昭和36年)からは沿線人口の少ない、地頭方 - 新三俣間は朝夕のみの運行となり、1964年(昭和39年)には藤枝市街区間の大手線と、ほぼ戦後開通区間と重なる堀野新田 - 新三俣が廃され、駿遠線全通時代は16年間で幕を閉じた。その3年後には利用客の少なかった新袋井 - 新三俣が全廃となり、旧・中遠鉄道の区間は完全に消えた。
相前後して駿遠線では、静岡市への通勤通学客を抱え、夏場には沿線の静波海岸など海水浴輸送という目玉もあり、快速列車「さざなみ」の運行も行われていた旧・藤相鉄道区間[注釈 1]向けに、軽便鉄道の新しい形を模索しようと、軽便では異例の大きさと出力を誇る190馬力級のディーゼル機関車・DD501を1965年に自社新造するなどしたが、この機関車も1両のみの製造に留まった。道路の発展によるバス路線の整備、さらに戦後の酷使による老朽化した設備を抱えては、もはや趨勢を押し戻すことのできる状況ではなくなっていた。
そして架橋から30年余を経た大井川橋梁について、橋脚の老朽化から架け替えを検討しなければならなくなった。しかし時節柄、新しい橋は木製橋脚でなく永久橋として架橋せねばならないことから、費用面に阻まれて架け替えは不可能だった。結局は1968年(昭和43年)に大井川以南を一気に廃止[注釈 2]、残るはわずか6.3kmとなった[注釈 3]。駿遠線は大井川以西区間からの長距離利用者の運賃で支えられている面が大きかったこと、そして路線規模が極小となったことで存在意義は失われ、遂に1970年(昭和45年)7月31日を限りとして終焉を迎えた。
駿遠線は路線長が長いこともあり、路線全通の頃から軽便鉄道には珍しく一部の駅を通過する愛称なしの快速列車が運行されていた。定期列車の快速に加え路線短縮後の1964年(昭和39年)からは、てこ入れとして藤枝 - 大井川間は各駅停車、以遠榛原町までノンストップの海水浴客向けの夏季臨時快速が運行され、「さざなみ」の愛称がつけられた。これらの快速は1967年(昭和42年)10月に全て廃止されている。
快速列車の運転開始は1956年(昭和31年)11月で気動車を使用し、新藤枝 - 地頭方間で1日6本であった。1958年(昭和33年)10月からは新藤枝 - 新袋井間で全線直通の快速列車の運行が始まり[注釈 4]、上下各1本の直通快速列車の他、下り快速は相良 - 新袋井間に1本(新藤枝 - 相良間は各駅停車)、新藤枝 - 地頭方間に3本が、上り快速は新袋井 - 新三俣間に2本、地頭方 - 新藤枝間に1本(新袋井 - 地頭方間は各駅停車)、相良 - 新藤枝間に1本が運行された。下り直通快速は所要2時間17分、上りの直通快速は所要2時間12分(表定速度27.6km/h)で、後者は駿遠線全線で史上最速の列車だった。しかしこの全線直通快速は、わずか1年ほどで廃止されている。
1960年(昭和35年)には普通列車を追い越す上り快速の運行が始まり、新袋井 - 新三俣間2本、地頭方 - 新藤枝間1本、相良 - 新藤枝間2本が運行され、うち3本で普通列車を追い越すダイヤが組まれていた。また下りの快速は新藤枝 - 地頭方間で4本(うち3本は相良から各駅停車)、新三俣 - 新袋井間で2本が運行された。所用時分は最速の列車で下り新藤枝 - 地頭方間で66分(相良で3分30秒停車)、上り地頭方 - 新藤枝間で64分(表定速度26.2km/h)だった[注釈 5]。しかし2年後には減便に加え普通列車の追い越しもなくなり、1964年(昭和39年)の路線短縮後は新藤枝 - 堀野新田間に朝上り・夕方下り1本、三俣 - 新袋井間では朝上り[注釈 6]1本の運行となった。
夏季臨時快速「さざなみ」は夏季の海水浴シーズンにのみ運行される臨時快速で、気動車2両が数両の客車を挟む長大編成が使用された。駿遠線の気動車の大半は総括制御のできない機械式だったため、各車に運転士が乗務し、警笛を合図にして運転操作を行っていた。またダイヤ上では、1967年(昭和42年)は最初から臨時列車のスジが設定されていた「予定臨」であり、運転日は他の定期列車の時刻変更が行われるなど、当時の国鉄並みの運用がなされていた。
駿遠線ではこれらの快速列車に小型ながらも立派なヘッドマーク[注釈 7]を用意し、専用のサボ(行先の上段に青字で『快速』と表示)も使用していた。またホーム停車中は列車の後端の脇にも「快速」の案内立て看板を掲示しており、このような例も他の軽便鉄道では見られないものであった。
静岡鉄道では気動車の型式において、2軸車の片側車軸だけをボギー台車に(駆動輪は固定軸側。これにより保守の簡便さと収容力拡大の両立を図った)した構造の「片ボギー車」に3軸の意の「C」を、一般的なボギー車に4軸の意の「D」を付加している。また自社製造のD14以前の車両は元々はガソリンカーとして製造され、戦時中の代燃装置搭載を経て第二次世界大戦後にディーゼルエンジンに換装している。変速機は基本的に機械式だが、自社製造車の一部は液体式だった。キハC1 - キハD9の引き継ぎ車グループ、キハD10 - キハC13(後にキハD形に改造)の転入車グループ、キハD14 - キハD20の自社製造グループの3つに大別される。駿遠線車両の車番は静岡鉄道合併時には旧・藤相鉄道と旧・中遠鉄道の車両で重複するものがあり(キハ1 - 3)、新たに小型のものから若番(1 - )として車番をつけ直すと共に、番号の頭にキハC・キハDの記号を冠した。
以上のうちキハD18 - D20までが全線廃止まで走り続けた。
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形式 | 大きさ | 製造所 | 製造年 | 廃車年 | 新旧名 | 備考 |
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1号 | 6.4トンB型 | コッペル | 1913年(大2)3月 | 1937年(昭12)11月 | ||
2-4号 | 1935年(昭10)3月/7月 | |||||
5号 | 5.75トンB型 | バグナル | 1914年(大3) | 1920年(大9)9月(売却) | ←中遠4号 | 1915年(大4)5月に中遠鉄道から譲渡[注釈 11]。 |
6号 | 6トンB型[56] | 大日本軌道鉄工部 | 1917年(大6)2月 | 1935年(昭10)7月 | ||
7号 | 1918年(大7)11月 | |||||
8号 | 6.4トンB型[56] | コッペル | 1922年(大11)8月 | 1952年(昭27) | →静岡6号 | 足廻りをDB603に転用。 |
9号 | 1952年(昭26)8月 | →静岡7号 | 足廻りをDB601に転用。 | |||
10号 | 6.5トンB型 | 1924年(大13)2月 | 1952年(昭27) | →静岡10号 | ||
11号 | →静岡11号 | |||||
12号 | →静岡12号 | 足廻りをDB602に転用。 |
形式 | 大きさ | 製造所 | 製造年 | 廃車年 | 新旧名 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1号 | 5.75トンB型 | バグナル | 1914年(大3) | 1952年(昭27)3月31日(解体) | →静岡1号 | 小型すぎたため、ディーゼル化されず解体。 2号機は黒澤映画に登場したほか、2011年(平23)にレプリカが製作され[57]袋井市浅羽記念公園にある[58]。 |
2号 | →静岡2号 | |||||
3号 | →静岡3号 | |||||
4号 | 1920年(大9)9月(売却) | →藤相5号 | 1915年(大4)5月に藤相鉄道に譲渡。 | |||
4号2 | 7.5トンB型 | コッペル | 1914年(大3) | 1952年(昭27) 頃 | →静岡13号 | ←南越2号南越鉄道の改軌・電化に伴い不要となった物を譲り受けた。 |
5号 | 8トンB型 | 日本車輌 | 1922年(大11) | →静岡14号 | ←栗原B81栗原鉄道より1941年(昭16)に中古として購入。 |
形式 | 大きさ | 製造所 | 製造年 | 廃車年 | 新旧名 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1号 | 5.75トンB型 | バグナル | 1914年(大3) | 1952年(昭27)3月31日(解体) | ←中遠1号 | 小型すぎたため、ディーゼル化されず解体。 2号機のレプリカが袋井市浅羽記念公園にある。 |
2号 | ←中遠2号 | |||||
3号 | ←中遠3号 | |||||
6号 | 6.4トンB型[56] | コッペル | 1922年(大11)8月 | 1952年(昭27) | ←藤相8号 | 足廻りをDB603に転用。 |
7号 | 1952年(昭26)8月 | ←藤相9号 | 足廻りをDB601に転用。 | |||
10号 | 6.5トンB型 | 1924年(大13)2月 | 1952年(昭27) | ←藤相10号 | ||
11号 | ←藤相11号 | |||||
12号 | ←藤相12号 | 足廻りをDB602に転用。 | ||||
13号 | 7.5トンB型 | 1914年(大3) | 1952年(昭27)頃 | ←中遠4号2←南越2号 | 南越鉄道の改軌・電化に伴い不要となった物を譲り受けた。 | |
14号 | 8トンB型 | 日本車輌 | 1922年(大11) | ←中遠5号←栗原B81 | 栗原鉄道より1941年(昭16)に中古として購入。 | |
15号 | 8トンB型 | 立山重工業 | 1948年(昭23) | 1954年(昭29)頃 | 戦時設計。15号機は藤枝市郷土博物館に現存[59]。 →詳細は「静岡鉄道B15形蒸気機関車」を参照 | |
16号 | 1952年(昭27)頃 | |||||
17号 | 12トンC型 | 雨宮製作所 | 1922年(大11) | 1951年(昭26)8月(売却) | ←栗原C121 | 栗原鉄道の改軌・電化に伴い不要となった物を譲り受けた。 |
18号 | 1952年(昭27)頃(解体) | ←栗原C122 | ||||
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駿遠線には、前身時代含め計48両の客車が在籍していた。木造車は引き継ぎ車と他社からの転入車に、鋼製車は転入車と自社製造車に大別される。なお、当線の客車は全てボギー車で2軸単車は藤相鉄道時代の人車客車のみであった。塗色は当初は明るい茶色1色で、昭和30年代に当時の静岡清水線の電車に準じた横須賀色に近いツートンカラーとなった。
形式 | 製造所 | 旧形式名 | 車両数 |
---|---|---|---|
木造車グループ | 33両 | ||
ハ1 - 4 | 大日本軌道鉄工部 | 中遠鉄道ロボ1 - 4 → 静岡鉄道駿遠線ホハフ1 - 4 | 4両 |
ハ5・6 | 名古屋電車製作所 | 安濃鉄道ボキ1・2 → 静岡鉄道中遠線ロボ7・8 → 静岡鉄道駿遠線ホハフ5・6 | 2両 |
ハ7 | 日本車輌製造 | 藤相鉄道ケホロハ3 → ホハフ3 → 静岡鉄道藤相線ホハフ7 | 1両 |
ハ8・9 | 岡部鉄工所 | 佐世保鉄道ハ7・6 → 国鉄ケコハ486・485 → 静岡鉄道駿遠線ホハフ8・9 | 2両 |
ハ10・11 | 日本車輌製造 | 中遠鉄道ロボ5・6 → 静岡鉄道駿遠線ホハフ10・11 | 2両 |
ハ12・13 | 藤相鉄道ケホハ7・8 → ホハフ7・8 | 2両 | |
ハ14 - 17 | 藤相鉄道ケホハ9 - 12 → ホハフ9 - 12 | 4両 | |
ハ18 - 20 | 藤相鉄道ケホハ13 - 15 → ホハフ13 - 15 | 3両 | |
ハ21 | 石川鉄道ナ2 → 石川鉄道ロ13 → 栃尾鉄道ホハ12 → 静岡鉄道藤相線ホハオフ21 | 1両 | |
ハ22 | 丸岡鉄道2(形式不明)→ 草津鉄道ホハ20 → 静岡鉄道藤相線ホハオフ22 | 1両 | |
ハ23 | 名古屋電車製作所 | 南越鉄道ロハ1 → 中勢鉄道ロハ8 → 三重交通サ364 | 1両 |
ハ24 | 南越鉄道ロハ5 → 中勢鉄道ロハ9 → 三重交通サ365 | 1両 | |
ハ25 | 日本車輌製造 | 南越鉄道ハ2 → 中勢鉄道ハ5 → 三重交通サ361 | 1両 |
ハ26 | 南越鉄道ハ4 → 中勢鉄道ハ7 → 三重交通サ363 | 1両 | |
ハ27・28 | 三重軌道3・4 → 三重交通サ333・334 | 2両 | |
ハ291・30 | 仙北鉄道ハ1407・1408 | 2両 | |
ハ292 | 藤相鉄道キハ5 → 静岡鉄道キハD4 | 1両 | |
ハニ1・2 | 名古屋電車製作所 | 中遠鉄道ハニ1・2 → 静岡鉄道駿遠線ホハニフ1・2 | 2両 |
鋼製車グループ | 15両 | ||
ハ101・ハ102 | 自社工場 | 2両 | |
ハ103 - ハ106 | 4両 | ||
ハ107 - ハ111 | 静岡鉄道駿遠線ハ108 → ハ112 | 5両 | |
ハ112 | 静岡鉄道駿遠線ハ112 → ハ108 | 1両 | |
ハ113 - 115 | 日本車輌製造 | 草軽電気鉄道ホハ30形 | 3両 |
貨車は合計55両が在籍していた。合併前から貨物輸送が盛んだったが、戦後トラック輸送が発達してくると、国鉄貨車から軽便貨車への積み換えの手間と輸送力の低さから需要が減少、1959年(昭和34年)に貨物輸送を全廃している。なお、藤相鉄道時代の大井川区間では、車夫が貨車を1両ずつ押して渡河したという。この区間では1915年(大正4年)に中遠鉄道から譲渡された5号蒸気機関車を使用する構想もあったが、重量の問題で実現しなかった。
年度 | 藤相鉄道 | 中遠鉄道 | ||||||||
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蒸気機関車 | 内燃動車 | 客車 | 貨車 | 蒸気機関車 | 内燃動車 | 客車 | 貨車 | |||
有蓋 | 無蓋 | 有蓋 | 無蓋 | |||||||
1913 | 4 | 8 | 5 | 3 | ||||||
1914 | 4 | 8 | 5 | 3 | 4 | 6 | 6 | 3 | ||
1915 | 5 | 14 | 14 | 5 | 3 | 6 | 6 | 3 | ||
1916 | 5 | 14 | 19 | 5 | 3 | 6 | 6 | 3 | ||
1917 | 6 | 14 | 19 | 5 | 3 | 6 | 6 | 3 | ||
1918 | 7 | 14 | 22 | 7 | 3 | 6 | 6 | 3 | ||
1919 | 7 | 14 | 22 | 7 | 3 | 6 | 6 | 3 | ||
1920 | 6 | 14 | 22 | 7 | 3 | 6 | 6 | 3 | ||
1921 | 6 | 14 | 22 | 7 | 3 | 6 | 6 | 3 | ||
1922 | 6 | 14 | 19 | 10 | 3 | 6 | 6 | 3 | ||
1923 | 6 | 14 | 19 | 10 | 3 | 6 | 6 | 3 | ||
1924 | 6 | 14 | 24 | 10 | 3 | 6 | 6 | 3 | ||
1925 | 11 | 17 | 24 | 13 | 4 | 8 | 6 | 7 | ||
1926 | 11 | 17 | 24 | 15 | 4 | 8 | 6 | 7 | ||
1927 | 11 | 17 | 24 | 15 | 4 | 8 | 6 | 7 | ||
1928 | 11 | 17 | 24 | 15 | 4 | 8 | 6 | 7 | ||
1929 | 11 | 17 | 24 | 15 | 4 | 2 | 8 | 6 | 7 | |
1930 | 11 | 17 | 24 | 15 | 4 | 2 | 8 | 6 | 7 | |
1931 | 11 | 3 | 17 | 24 | 15 | 4 | 2 | 8 | 6 | 9 |
1932 | 11 | 3 | 17 | 24 | 15 | 4 | 2 | 8 | 6 | 9 |
1933 | 11 | 3 | 17 | 24 | 15 | 4 | 2 | 8 | 6 | 9 |
1934 | 11 | 3 | 16 | 24 | 15 | 4 | 2 | 8 | 6 | 9 |
1935 | 6 | 3 | 13 | 22 | 13 | 4 | 3 | 8 | 6 | 9 |
1936 | 6 | 4 | 12 | 22 | 13 | 4 | 3 | 8 | 6 | 9 |
1937 | 5 | 5 | 11 | 22 | 13 | 4 | 3 | 8 | 6 | 9 |
年度 | 蒸気機関車 | 内燃機関車 | 内燃動車 | 客車 | 貨車 | |
---|---|---|---|---|---|---|
有蓋 | 無蓋 | |||||
1947 | 10 | 7 | 20 | 22 | 27 | |
1950 | 12 | 1 | 10 | 30 | 29 | 26 |
1954 | 1 | 9 | 10 | 30 | 29 | 27 |
1957 | 0 | 9 | 13 | 33 | 20 | 17 |
1969 | 1 | 3 | 6 | 0 | 0 | |
駅名 | ふりがな | 開業日 | 廃止日 | 開業時 の所属 |
備考 |
---|---|---|---|---|---|
駿河岡部駅 | するがおかべ | 1925年1月16日 | 1936年5月19日 | 藤相鉄道 (岡部線) | |
横内駅 | よこうち | ||||
八幡橋駅 | やはたばし[65] | 旧称を上当間(かみとうま)とする資料があるが開業時の官報[31]及び『停車場一覧』「大正15年版」、「昭和2年版」、「昭和9年版」のいずれも八幡橋であり詳細不明 | |||
水守駅 | みずもり | ||||
農学校前駅 | のうがっこうまえ | ||||
大手駅 | おおて | 1913年11月16日 | 1964年9月27日 | 藤相鉄道 (大手線) | |
慶全寺前駅 | けいぜんじまえ | ||||
藤枝本町駅 | ふじえだほんまち | 藤枝市市政施行記念で1956年1月1日に岡出山(おかでやま)より改称[66]。 | |||
瀬戸川駅 | せとがわ | ||||
志太駅 | しだ | 不明 | |||
青木村駅 | あおきむら | 1916年1月16日[67] | |||
新藤枝駅 | しんふじえだ | 1970年8月1日 | 藤枝市市政施行記念で1956年1月1日に藤枝新(ふじえだしん)より改称[66]。 | ||
高洲駅 | たかす | 1914年9月3日 | 藤相鉄道 | ||
大洲駅 | おおす | ||||
上新田駅 | かみしんでん | ||||
相川駅 | あいかわ | 1924年4月4日[68] | 駿遠鉄道との接続駅と想定された。後に静岡清水線との接続構想における分岐駅。 | ||
大井川駅 | おおいがわ | 1970年8月1日 | |||
大幡駅 | おおはた | 1915年5月1日 | 1924年4月4日[68] | ||
遠州神戸駅 | えんしゅうかんど | 1968年8月22日 | 吉田町に合併したため1957年2月1日に神戸村(かんどむら)より改称[66]。 | ||
上吉田駅 | かみよしだ | ||||
下吉田駅 | しもよしだ | 不明[注釈 12] | |||
根松駅 | こんまつ | 1968年8月22日 | |||
細江駅 | ほそえ | ||||
静波駅 | しずなみ | 1934年10月1日[69] | 既設線に新設 | ||
榛原町駅 | はいばらちょう | 1915年9月18日 | 開業時 川崎町、1915年9月23日 遠州川崎町に改称。1955年3月28日、合併による町名変更のため榛原町に改称[66]。 | ||
片浜駅 | かたはま | 1918年6月16日 | |||
太田浜駅 | おおたはま | ||||
相良駅 | さがら | ||||
新相良駅 | しんさがら | 1926年4月27日 | 1955年頃、相良新(さがらしん)より改称[66]。 | ||
波津駅 | はづ | ||||
須々木駅 | すすき | ||||
落居駅 | おちい | ||||
地頭方駅 | じとうがた (ぢとうがた) [注釈 13] | ||||
堀野新田駅 | ほりのしんでん | 1948年9月6日 | 静岡鉄道 | ||
玄保駅 | げんぼ | 1964年9月27日 | |||
遠州佐倉駅 | えんしゅうさくら | ||||
桜ヶ池駅 | さくらがいけ | ||||
浜岡町駅 | はまおかちょう | 1948年1月20日 | 合併による町名変更のため1955年4月1日に池新田(いけしんでん)より改称[66]。 | ||
塩原新田駅 | しおばらしんでん | ||||
合戸駅 | ごうど | ||||
千浜駅 | ちはま | ||||
国安海岸駅 | くにやすかいがん | 不明 | 不明 | 海水浴場の臨時乗降場 | |
西千浜駅 | にしちはま | 1948年1月20日 | 1964年9月27日 | ||
新三俣駅 | しんみつまた | 1927年4月1日 | 1967年8月28日 | 中遠鉄道 | |
南大坂駅 | みなみおおさか | 1925年4月7日 | |||
谷口駅 | やぐち | 1925年12月1日[69] | 既設線に新設 | ||
野賀駅 | のが | 1925年4月7日 | |||
野中駅 | のなか | ||||
河原町駅 | かわらまち | ||||
新横須賀駅 | しんよこすか | 1914年1月12日 | |||
七軒町駅 | しちけんちょう | ||||
新川西駅 | しんかわにし | 1916年5月1日[75] | 不明 | 既設線に新設(貨物駅) | |
石津駅 | いしづ | 1915年5月11日[76] | 1967年8月28日 | 既設線に新設 | |
新三輪駅 | しんみわ | 1914年1月12日 | |||
新岡崎駅 | しんおかざき | ||||
五十岡駅 | いごおか | 1915年5月11日[76] | 既設線に新設 | ||
浅名駅 | あさな | 1914年1月12日 | |||
芝駅 | しば | ||||
諸井駅 | もろい | ||||
柳原駅 | やなぎはら | ||||
袋井駅 | ふくろい | 開業時新袋井、資料により袋井→社袋井→新袋井となっているが開業時の官報[39]及び『停車場一覧』「大正15年版」、「昭和2年版」、「昭和9年版」のいずれも新袋井(しんふくろい)であり詳細不明。 |
年度 | 1948年 | 1949年 | 1950年 | 1955年 | 1960年 | 1965年 | 1967年 | 1970年 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
旅客輸送密度(人/日) | 1,903 | 1,533 | 1,355 | 1,814 | 1,877 | 2,031 | 2,835 | 2,926 |
2009年現在の自治体名。合併などもあったため、運行当時の通過自治体名とは必ずしも一致しない。
唯一B15形蒸気機関車(1948年立山重工業製)が保存されている。廃線後に静岡市の駿府公園内の静岡市立児童会館内に展示されていたが、改装に伴い静岡鉄道長沼駅構内で保管ののち、整備の上で静岡県藤枝市にある藤枝市郷土博物館に寄贈され、保存展示されている。同館内には藤相鉄道にまつわる資料も展示されている。
一部の客車は保存や再利用されたが、上屋もなく野ざらしであったため、老朽化によりすべて解体されている。
1943年(昭和18年)3月25日に公開された黒澤明の監督デビュー作『姿三四郎』のラストシーンは、中遠鉄道で撮影され[83]、装飾された2号機や客車、腕木式信号機が登場している。客車内での黒澤以下スタッフが乗客に扮して出演したが、試写を見た森岩雄(東宝映画重役)に「ふざけ過ぎる!」とたしなめられて、カットされたという逸話がある[84]。同鉄道は同年5月15日に合併して静岡鉄道に改称しているので、映画は中遠鉄道時代を記録した貴重な映像となった。
これを受けてか、2011年(平成23年)に袋井市が浅羽記念公園を整備した際[58]、機関車レプリカには2号機[57]が選ばれた。
このほか、1941年(昭和16年)6月10日公開の古川ロッパ原作・主演の『歌へば天国[85]』には野中駅(中遠鉄道)、1946年(昭和21年)の日本映画社製作の『日本ニュース[86]』には買い出し列車を牽くコッペル機(静岡鉄道藤相線)が登場している。
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