笹野甚四郎

日本の資産家 ウィキペディアから

笹野 甚四郎(ささの じんしろう、1853年11月3日嘉永6年10月3日[1] - 1928年昭和3年)12月6日[2])は、日本資産家[3][4]実業家藤相鉄道社長[5]。共盛銀行頭取[6]。族籍は静岡県平民[7][8]

人物

静岡県志太郡藤枝町出身。藤枝宿下伝馬の郷宿「ならや」を営む八百次の長男[9]。幼名は十三吉[9]。恵まれた環境であったが5歳の時に実父を、12歳の時に祖父を、14歳の時に継父を亡くし笹野家は苦境に立たされる[9]

1868年家督を相続[6][8]。祖父の甚四郎の名を襲名し「ならや」の看板を捨て、料理屋を起こす[9]1869年、隣家からの火事で全焼し、それを機に駿河半紙を扱う紙屋に転身、同業者が増えると次に運送業を始める[9]

1891年、東京へ出る[9]缶詰製造・精米業を営む[1]1894年日清戦争の際に笹野の食糧事業が注目され、海軍省に納めることになる[9]1904年には陸軍にも納入され、兵食の三分の一を賄うまでになる[9]

海陸御用商として佐世保、鎮海湾等に支店及び製造所を設け、諸種の缶詰を製造し、また東京の深川に精米所を経営した[10]。信用は四方に溢れて陸海軍の御用品として、或いは各地海外に販路は拡域され、取引は殷賑を極めた[1]

また銀行会社の重役であった[7]。共盛銀行頭取、藤相鉄道社長、帝国鉄筋コンクリート、静岡県農工銀行、中遠鉄道取締役、藤枝合同運送、大正化学製品、東陽製茶各監査役等をつとめた[5][6][7][10]。劇場の建設にも関わった[9]

笹野は静岡市に於ける富豪である[10]。広島市段原町に笹野が経営する陸海軍御用、旭缶詰製造所・精米所の工場がある[11]。住所は静岡市紺屋町[5][6][8]

家族・親族

笹野家

脚注

参考文献

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