Remove ads
静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷と藤枝市岡部町岡部坂下の境にある峠 ウィキペディアから
宇津ノ谷峠(うつのや とうげ、表記揺れ:宇津谷峠[1])は、日本の東海地方東部に所在する宇津山/宇津の山/宇都山[1][2][3]の南側にある峠[4][5]。現代行政区画上は静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷と藤枝市岡部町岡部坂下の境にある[6][4][5][7][8]。国道1号・旧東海道が通る。標高約151メートル[要出典]。
中世から交通の要衝であった。和歌にも詠われ、歌舞伎の怪談劇『蔦紅葉宇都谷峠』の舞台としても知られる[9]。現在でも国道1号のトンネルが通過している。また、平安時代の道(蔦の細道)から国道1号現道のトンネルまで、全て通行可能な状態で保存されており、道の変遷を知ることができる。近世東海道の交通を知る貴重なものとして2010年(平成22年)2月22日に「東海道宇津ノ谷峠越」の名称で国の史跡に指定された[10][11]。
平安時代、古代東海道にあった小川駅が廃止されたことに伴い、それまで太平洋側にある日本坂を通過していた交通が宇津ノ谷の蔦の細道へと移った。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、蔦の細道では進軍の峠越えに難があったため、それより1 km西に新たな峠道を整備した。その後、こちらが、現在の旧東海道のルートとなった[12]。
江戸時代に入ると宿場・参勤交代の制度とともに東海道は整備された。宇津ノ谷峠周辺にも鞠子宿と岡部宿が置かれ、峠付近にも宿や商店が立ち並んで間の宿の役割を果たした。
天保3- 5年(1833-1834年、江戸時代後期)には江戸で歌川広重の名所浮世絵揃物『東海道五十三次』が保永堂から刊行されたが、その第21景「岡部 宇津之山」で画に取り上げられたのは宇津ノ谷峠であった(■右側の画像も参照のこと)。
明治に入り、文明開化により東海道の交通量が増大したため、当時安倍郡弥勒村の村長であった宮崎総五が地元の有力者にトンネルの掘削を働きかけた。それを受けて杉山喜平次らが結社を作り[13]、1874年(明治7年)に掘削を開始、1876年(明治9年)に日本初の有料トンネルとして開通した。ところが、この初代は1896年(明治29年)に失火して崩落してしまい、閉鎖された。
その後、初代の残された一部を利用する形で2代目が着工され[14]、1904年(明治37年)に開通した[15]。現存する国の登録有形文化財「明治宇津ノ谷隧道」は、この施設のことである[16]。
しかし、東海道本線建設にあたっては、海岸寄りの石部トンネル経由となり、宇津ノ谷峠を越える鉄道路線は敷設されなかった。1900年(明治33年)発表の鉄道唱歌には21番で「駿州一の大都会 静岡いでて安部川を わたればここぞ宇津ノ谷の 山きりぬきし洞の道」と東海道線が宇津ノ谷峠をトンネルで抜けているように取れる歌詞があるが、事実を歌っていない。なお、1925年(大正14年)に藤相鉄道が藤枝市内から駿河岡部駅までの路線を開通させ、さらに宇津ノ谷峠を越えて静岡市内まで路線をつなぐ計画もあったが、早くも1936年(昭和11年)には岡部町内の区間が廃止されてしまい計画が実現されることはなかった(静岡鉄道駿遠線を参照)。
明治のトンネルは、その後の自動車の普及に伴って対応できなくなったため、1926年(大正15年)に宇津ノ谷隧道(昭和第一トンネル)の建設が開始され、1930年(昭和5年)に開通した。昭和第一トンネルは当時としては高規格な作りになっており、現在でも大型車が十分にすれ違える幅員が取られている。
第二次世界大戦後の高度経済成長期、モータリゼーションが進展すると昭和第一トンネルでも交通の増大に耐えられなくなった。そのため、1957年(昭和32年)に新宇津ノ谷隧道(昭和第二トンネル)の建設が開始され、1959年(昭和34年)に開通した。昭和第二トンネルは第一トンネルよりも標高の低い位置に建設され、静岡・岡部間の所要時間は大幅に短縮された。
しかし、それでもその後の通過トラックの増加、志太平野への人口の流入による交通量増加には対応できなかった。そのため岡部バイパス整備に合わせて平成宇津ノ谷トンネルの建設が1990年(平成2年)に開始され、1998年(平成10年)に開通した。この開通に合わせて昭和第二トンネルは上り線専用に改修され、国道1号は片側2車線となった。
周辺には道の駅宇津ノ谷峠も整備され、通過する車両は「峠」であることを意識することなく通過できるようになった。
このうち、明治のトンネル、昭和第一トンネル、昭和第二トンネルは「宇津ノ谷隧道群」として、2018年(平成30年)に土木学会選奨土木遺産に選ばれる[17]。
ここでは、画題としての宇津山(宇津の山)・宇津谷(宇津ノ谷)・宇津谷集落(宇津ノ谷集落)について解説する。
東海道の街道筋にあった江戸時代には、宇津山とその峠である宇津谷峠は、江戸方の鞠子宿と上方(京都方面)の岡部宿を繋ぐ位置にあった。宇津谷峠の道の江戸方(鞠子側)には古くから「宇津谷村 / 宇津の谷村 / 宇津ノ谷村」があったが、参勤交代も含めて往来が盛んであった江戸時代には間の宿として栄えた。集落は、今も昔も、上り坂の途中にある「下の集落」と上りきった所にある「上の集落」という2つの区域で構成されている。
「宇津山/宇津の山/宇津ノ山(うつのやま)」は、歌枕になっている[2][3]。「うつ」が同音であることから「うつつ」を導き出す語としても使われる[1]。
この節の加筆が望まれています。 |
この節の加筆が望まれています。 |
この節の加筆が望まれています。 |
宇津ノ谷の十団子は、食人鬼供養の十団子、厄除け十団子として古くから知られ[33][34][35][36][37]、宇津ノ谷集落で売られていた名物和菓子である[33][36]。
2020年(令和2年)6月19日、東海道宇津ノ谷に関する史跡や文化財群である「慶龍寺」「間の宿宇津ノ谷」「十団子」「東海道宇津ノ谷峠越」「明治宇津ノ谷隧道」「蔦の細道」が、文化庁の文化財保護制度「日本遺産」のストーリー『日本初「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅~滑稽本と浮世絵が描く東海道旅のガイドブック(道中記)~』の構成文化財の1つに認定された[38]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.