親藩大名に将軍により直接附けられた家老 ウィキペディアから
御附家老(おつけがろう)は、江戸幕府初期、将軍家の連枝を大名として取り立てた際に、特に将軍から直接の命令を受けてその者の家老に附属された家臣のことをいう。江戸時代には、将軍から附けられたことから「御附家老」と呼ばれたが、現在では単に附家老(つけがろう)ということが多い。多い場合は十数人付けられたらしいが、通常はそのうちの筆頭家老を指す。附家老家の中でも徳川御三家の筆頭附家老5家が特に知られている。
将軍の一族から大名に取り立てられた人物には、小姓などの側近を除いて固有の家臣はいないので、藩政を担う家老はみな将軍家から付けられた者となるが、ここでいう附家老は、政務や軍事の補佐を行うとともに藩主の養育の任も受け、江戸幕府の意向に沿うことも期待されていた。したがって身分としては、藩主の家来というよりも将軍直属のお目付け役という性格が強い。時代が下るにしたがって、藩ごと、附家老家ごとに考え方に差ができ、藩主に忠実に仕えて将軍家と対抗しようとしたり、逆に陪臣身分からの脱却を画策して藩主と対抗したり、財政支援と引き換えに将軍家・御三家出身の後継藩主を迎えて幕府の影響を強めるなど、政策と主導権を巡って藩内で派閥抗争を繰り広げる人物もいた。特に尾張徳川家の成瀬家・竹腰家、紀伊徳川家の安藤家・水野家、水戸徳川家の中山家の計5家が御三家の政策を強く左右することとなった。慶応4年(1868年)1月24日、新政府により御三家の附家老5家は独立大名に取り立てられた。この5家は明治17年(1885年)の華族令でいずれも男爵になっている。他の大名家は子爵となったが、これは明治以降に堂上公家または諸侯大名に取り立てられて華族に列した者は一律男爵とする内規に基づいたもので、特に旧附家老家を差別待遇したものではない。
初代の附家老はそれぞれ、将軍より親藩藩主の育成や統治、幕府との調整などを命じられており、使命感を持って附家老を勤めた。しかし、江戸幕府が整備されていく上で、附家老5家体制が整った後、5家は大名格の所領を持ちながら陪臣として家格が低かったため、連帯して幕府に譜代大名並みの待遇を求めた運動を行った。元々、直参幕臣と親藩陪臣という立場の差から抵抗を感じる者もいた。例えば家康は尾張義直と紀州頼宣の附家老に松平康重と永井直勝を考え、内意を伝えたところ、両人ともに家康に仕え続けることを希望した。また、頼宣の附家老となった水野重央も一度は辞退しており、その子重良はもっと明確に拒否を表明して、2,000石の直参として秀忠・家光に仕えたまま、父の遺跡を継承して附家老となることを拒み、重央が元和7年(1621年)11月12日に没した後、約2年も跡を継がずに弟の定勝に3万5,000石の大禄を譲ることを希望した。結局、秀忠と家光の説得により、元和9年(1623年)6月に家督を継いで附家老となったが、その約2年の間は附家老の水野家は無主であった[1]。
一般的な政務地として附家老たちは次のような形態をとっていた。
御三家の附家老5家は、江戸初期の慶長の頃より主家とは別に江戸屋敷を拝領していた。それぞれの主家屋敷の周りに屋敷を構えており、基本は国詰め政務の紀州安藤家以外の附家老屋敷は、時代とともに敷地を拡大していった[2]。
幕府に対して、初めて附家老の待遇改善を要求したのは、水戸の中山家第10代信敬であった。信敬は水戸第5代藩主の徳川宗翰の実子で、第6代藩主治保の実弟である。明和8年7月に中山家を相続し、兄から水戸藩政も任されると、江戸城内での待遇改善を幕閣に働きかけた。文化13年1月、老中水野忠成に八朔五節句の単独登城と将軍御目見を陳情したことをスタートに、それ以前は陪臣として藩主との随伴登城しか許されていなかった待遇からの脱却を図った。信敬以降、他の附家老も連帯して譜代大名並みの待遇を求めていった。特に安藤直次と成瀬正成は、江戸時代初期に大御所となった徳川家康の駿河政権に参画した。家康側近として江戸・伏見・駿河に随伴し、駿河年寄として本多正純、村越直吉、大久保長安、板倉勝重などと共に幕府運営のための文書に連署するなどの重責を担ったまま、同時に義直・頼宣の附家老に任じられた[3]。これら2家の歴史は、立場が異なれば老中を輩出する譜代大名となったであろうことから、子孫による附家老の家格上昇運動の意識に影響を与えた。
八朔五節句の単独登城については、文政8年3月8日の水戸藩家老衆の通達によると、まず成瀬・安藤の両家が単独登城を果たし、中山家他の附家老も続くことに成功した。安藤直裕は天保2年12月に日光奥之院の安藤直次の石碑が埋もれているのを発見し、それを譜代大名の石碑の列に再建したい旨を幕府に申し出たが、同列の再建を許されず、成瀬・竹腰・中山の石碑が譜代大名の石碑の列にあることからさらに陳情を繰り返した。また、独立大名が将軍の代替わり時に提出する誓詞を、附家老も提出したいという5家連帯の家格向上運動は、水戸藩主徳川斉昭の妨害により挫折したが、江戸城内に独自の詰間を保有する改善要求は、文政7年の安藤直馨以降より直接懇願されており、嘉永6年5月には老中阿部正弘に水野忠央が雁之間を詰間にほしいと具体的な場所を指定した懇願を提出した。紀州藩の水野忠央が藩政を掌握して縁組で幕府に食い込み、紀州藩から養育した将軍を就任させ、また逆に将軍家よりの養子藩主を受け入れることで権力を強化し、5家連帯の運動よりさらに突出して、紀州藩の水野・安藤2家に菊之間席を与えるように幕府に求めた。しかし、それは5家の足並みを乱して反発を招き、また将軍の側室には大名の子女より迎えないという原則を破る批判もあった他、幕府側から見れば御三家をコントロールする機能の存続を期待された附家老が独立するということは機構上も許されることではないという構造的問題と限界があり、独立は認められなかった[4]。
徳川忠長の駿河徳川家にも幕府から附家老が配置されたが、御三家附家老並の立場にあったのは朝倉宣正と鳥居成次の2名であった。徳川秀忠の治世下において従二位権大納言は尾張家義直(61万9,500石、慶長5年生まれ)、紀州家頼宣(55万5,000石、慶長7年生まれ)、駿河家忠長(55万石、慶長11年生まれ)の3家で並んでおり、水戸家頼房(28万石、慶長8年生まれ)は権中納言で官位と石高で一段劣っていた。将軍家光の代になり忠長が甲州蟄居、高崎幽閉から最終的に切腹となり家が解散となると、家臣たちは他家預かりとなり、家臣団は解体させられたが、両附家老は他の家臣と異なり、忠長の行状を正すことができなかった監督責任を問われて改易され、冷遇された[1]。改易された出羽国最上氏の元家臣であった鮭延秀綱は秀忠より忠長の附家老となることを要請されたが、これを固辞したとされる。
越前松平家は家康の次男秀康に附家老として本多富正が付けられ、秀康没後を継いだ忠直には加えて本多成重が付けられた。
江戸時代中期に創設された御三卿は将軍家における部屋住みとしての性格が強く、独自の領地を持たずに幕府から賄料(経費)を支給され、家中運営のための家臣も幕府から出向した幕臣の「御付人」と「御付切」、独自採用の「御抱入」から構成された。特に御付人は家老をはじめ「三殿八役」と総称された上級役職のみを担当した。御三卿の初代家老には、以下の通り各家2名が幕臣から任じられた[5]。
譜代大名となった井伊直政(上野国箕輪藩、後に近江国彦根藩)・榊原康政(上野国館林藩)は元々代々受け継いだ家臣団があるわけではなく、各々がおよそ一代で徳川家康の信任を得ることでのちに大封を受けたが、ともに一族や譜代の家臣が少ないことにより領地経営や大封に見合った軍役に支障が出るため、家康の指示により本来は徳川氏の直臣の中から(いわゆる与力・寄騎として)井伊家・榊原家の下に配属させられた家臣がいた。これを「御付人」などと称する(前述の本多忠勝家における中根忠実を祖とする中根氏もこれに相当する)。
井伊家では井伊谷三人衆(近藤氏(近藤秀用)・菅沼氏(菅沼忠道)・鈴木氏(鈴木重好))や川手氏(川手良則)・木俣氏(木俣守勝)・椋原氏(椋原政直)・西郷氏(西郷正員(正友))、榊原家では中根氏・原田氏・村上氏などがこれに当たる。
御付人は両家において家老などの要職に就く重臣層を形成したが、一方で陪臣になることを快く思わず、徳川家の直臣への復帰を訴える行動が度々発生した。
井伊家の例では井伊谷三人衆は井伊家を去った一方、木俣氏や西郷氏は井伊家の直臣化して、代々家老として仕えた。椋原氏は数代で家が一旦途絶えたが、のち血縁の西郷氏の一人を立てることで御家再興した。だがこの時点で「徳川本家からの御付人」ではなくなったと看做されたのか、以降の椋原氏は重臣ではあるが家老職には就いていない。川手氏は井伊家の親族扱いでかつ家臣筆頭であったが、川手良則の子が大坂の陣で戦死し、その子も早世したため、断絶となった。幕末に藩主一族により川手氏の名跡は再興されている。
榊原家では中根長重・原田種政・村上勝重は「三家老」と称され、三家の子孫は代々家老として仕える一方、榊原家とは別に幕府からもそれぞれ1,000石の扶持を受けて明治維新に至っている。これは、初代の三家老が徳川秀忠に対して徳川家の直臣への復帰を懇願した時、秀忠が形式的に1代限りの復帰を認めた上で、隠居料の名目で1624年に各々1,000石を与えて子孫への相続が認められた。つまり、以降榊原家の直臣となった子孫がしかし「幕府からも知行を受けている、すなわち榊原家の臣ではあるが、幕府直臣でもある」という立場をそのまま相続することを認めたから、とされている。のち、幕府の慶応の改革の際、旗本の軍役が金納に代わった時にこの1,000石分の軍役の扱いについて、幕府勘定所と榊原家(当時は越後国高田藩)の間で論争になっている[6]。村上勝重の長男・次男・弟もそれぞれ榊原家に仕えたが、三男は徳川直参となっている。
時の権力者の構想により、大身の家中が急造された場合や、本家と別に分家が立てられた際などに、実務能力などを買われた家臣が本家などから配属させられる例は、江戸幕府以前からも普通に行われていた。室町幕府が鎌倉公方を設置した際や、大名が本家とは別に遠国の守護領を拝領した場合、織田信長が自身の子息や家臣をいわゆる軍団化させた場合の寄騎とされた武将、豊臣秀吉が自身の親族を大身の大名に取り立てた際などである。これらの配属された寄騎の者らの中でも、特に重臣として家中の采配を任じられた者を「付家老」と表現する場合がある。
(秀次改易事件前までに転出済)
(改易事件時)
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