粟野秀用
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粟野 秀用(あわの ひでもち)は、安土桃山時代の武将・大名。通称は、藤八郎、喜右衛門、粟野木工頭。出羽国二色根城主(伊達氏時代)。伊予国正木城主(豊臣氏時代)。官位は、従四位下、木工頭。
略歴
陸奥国の出身。藤原山蔭(中納言山蔭十二世)の子孫である伊達氏第3代当主・伊達義広(粟野次郎藤原義広)の後裔、粟野十郎左衛門尉宗次[1](粟野喜左衛門尉)の子で、出羽国二色根城主[2](現山形県南陽市)。
当初は、伊達氏第17代当主・伊達政宗の家臣であり[3](伊達小次郎の傳役)、罪を犯し、死罪に処せられることを知って逃亡[4][5]。京都に出奔。尾張国で豊臣秀吉に仕えた。勇敢な働きによる軍功をあげて知行1万石を与えられた[6]。秀吉より「秀」一字を与えられ、粟野木工頭秀用と称した[7]。これを聞いた政宗は人を介して秀用を引き渡すように請うたが、秀吉は自分に仕えて功をあげて扶持を与えた者だからと拒否した。政宗は敢えてそれ以上求めず、秀用は益々忠勤するようになった。
天正13年(1585年)、四国攻めに従軍。その功により伊予国正木城(現愛媛県伊予郡松前町)10万石を与えられ、木工頭にも任じられた。その後、豊臣秀次に転属、その重臣なって3万石を加増され、さらに天正18年(1590年)また3万石を追加された[8]。この所領の中には三河国碧海郡池鯉鮒村(現愛知県知立市)1,000石が含まれている。
文禄4年(1595年)の秀次事件に連座して、京の三条河原にて斬首、または大雲院に入って秀次の無罪を訴えて自害した。この点、秀用の最期に関して、秀次事件に連座して京の東山で自害したとされることが多いが、市立米沢図書館所蔵『米沢事跡考』には、「石田三成によって虚偽の内容を(秀吉に)告げられ、おとしめられた結果、秀用も謀反を企てたとされ、京の東山で自害した」とある[9]。法名は真光院殿秀明大居士[10]。この事件に関し、政宗も秀用との種々の関連性から関与を疑われ、秀吉に対し、釈明に追われることとなった。
なお、『米沢事跡考』にある通り、秀用には妻子がなかったと推定されるも、粟野家自体は断絶していない。
墓所
関連作品
小説
テレビドラマ
登場作品
脚注
出典
関連項目
外部リンク
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