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鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。従一位・関白、左大臣。後村上天皇出仕は正平一統時。 ウィキペディアから
近衛 基嗣(このえ もとつぐ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。左大臣・近衛経平の子。官位は従一位・関白、左大臣。
当時近衛家の系譜は父・経平の代で分裂しており、基嗣はその嫡流の座を従兄の経忠(経平の兄・家平の子)と争った。出世争いは年長の経忠が先んじ、元徳2年(1330年)、後醍醐朝で関白任官する(短期間で辞官)。基嗣はその後光厳朝で左大臣に至るが、正慶2年/元弘3年(1333年)、鎌倉幕府の滅亡、後醍醐天皇の重祚と前後して解任される。
建武政権で登用された経忠は政権崩壊後、光明朝で関白に任ぜられる(建武政権においては、関白は廃止されていた)が、吉野に脱出して南朝を打ち立てた後醍醐天皇の下に馳せ参ずる。京の朝廷は経忠を解任し、後任の関白に基嗣を任じた。基嗣は室町幕府の誕生に関白として立ち会い、辞官後も内覧として朝政に加わった。経忠の一家は南朝の衰微と共に没落し、以降近衛家は基嗣の子孫を嫡流として続いてゆく。
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