鷹司冬教
鎌倉時代後期~南北朝時代の公卿。従一位・関白・左大臣。鷹司家5代、藤氏長者。玉葉和歌集』以下に9首入集 ウィキペディアから
鷹司 冬教(たかつかさ ふゆのり、旧字体:鷹司 冬󠄀敎)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての公卿。太政大臣・鷹司基忠の三男だが、兄・冬平の養子となる。官位は従一位・関白・左大臣。鷹司家5代当主。号は後円光院関白。
経歴
延慶2年(1309年)4月、元服と同時に正五位下に叙せられ、禁色を聴される。6月に右近衛中将に任ぜられ、8月に従四位下、10月に正四位下、11月に従三位に叙せられて5歳にして公卿に列す。
延慶3年(1310年)正三位・権中納言に叙任される。12月15日、養父・冬平が太政大臣に任ぜられると、冬教は父に扈従して慶賀を申している[1]。応長元年(1311年)には従二位・権大納言に叙任され、応長2年(1312年)正二位に叙せられた。元応2年(1320年)左近衛大将・左馬寮御監を兼ね、元亨2年(1322年)内大臣、元亨3年(1323年)には東宮傅を兼ねて元亨4年(1324年)に左大臣に任ぜられた。正中3年(1326年)東宮傅を辞任。
嘉暦2年(1327年)養父・冬平の薨去を受けて喪に服す。嘉暦4年(1329年)従一位に叙せられて元徳2年(1330年)正月、近衛経忠が冬教を飛び越えて関白・氏長者となったことを不満として辞職したが、同年8月に関白宣下がされた。しかし、元弘3年(1333年)5月17日、後醍醐天皇の詔により光厳天皇の即位が廃され、同天皇が与えた官位は無効となった。しかし、冬教を関白としたのは後醍醐天皇であるため、冬教は解任という形で関白を免ぜられている。建武元年(1334年)右大臣となり、氏長者、治部卿を兼ねた。建武2年(1335年)に左大臣に還ったが、11月に職を辞退した。
人物
官歴
※以下、註釈の無いものは『公卿補任』の記載に随う。
- 延慶2年(1309年)
- 4月20日[2]:元服。正五位下に叙し、禁色を聴す。
- 4月27日:右近衛少将に任ず。
- 6月12日:右近衛中将に転ず。
- 8月10日:従四位下に叙す。
- 10月12日:正四位下に叙す。
- 11月23日:従三位に叙す(大嘗会叙位院御給)。右中将如元。
- 延慶3年(1310年)
- 2月8日:権中納言に任ず。右中将如元。
- 5月11日:正三位に叙す。
- 応長元年(1311年)
- 応長2年(1312年)3月3日:正二位に叙す。
- 正和2年(1313年)7月7日:服暇す。
- 元応2年(1320年)
- 4月12日:左近衛大将を兼ぬ。
- 5月14日:左馬寮御監に補す[3]。
- 元亨2年(1322年)
- 8月11日:内大臣に任ず。
- 8月12日:左大将還宣旨を下す。
- 元亨3年(1323年)
- 正月11日:左近衛大将を辞す。
- 正月13日:左右近番長各一人を賜い、近衛各三人を随身と為す。
- 9月28日:東宮傅を兼ぬ。
- 元亨4年(1324年)4月27日:左大臣に転ず。東宮傅如元[3]。
- 正中3年(1326年)3月20日:東宮傅を辞す。
- 嘉暦2年(1327年)
- 正月19日:服解(父)。
- 4月12日:復任。
- 嘉暦4年(1329年)正月5日:従一位に叙す。
- 元徳2年(1330年)
- 正月27日:辞任。
- 8月25日:関白宣下。同日内覧兵仗宣下。
- 元徳3年(1331年)正月30日:左大臣を辞す。
- 元弘3年(1333年)5月17日:関白を辞す。
- 建武元年(1334年)
- 10月9日:右大臣に任じ、氏長者と為す。
- 12月17日(1335年1月12日):治部卿を兼ぬ。
- 建武2年(1335年)
- 2月16日:左大臣に転ず。氏長者治部卿如元。
- 11月19日:所職并びに氏長者を辞す。
系譜
脚注
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.