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日本の男性俳優、声優 ウィキペディアから
諏訪 孝二(すわ こうじ、1929年11月9日[2] - 2015年5月8日)は、日本の元俳優[3]、声優[1]。早稲田大学政治経済学部中退。東京府北豊島郡日暮里町(現・東京都荒川区)で生まれる[3]。
劇団薔薇座[1]、劇団東芸[4]、グループりんどう[5]、同人舎プロダクション[2]、河の会[6]、テアトル・エコー等に所属。
日暮里町にある老舗「羽二重団子」の店主の次男として生まれる。作家・吉村昭とは竹馬の友の仲で、東京初空襲の米軍機ノースアメリカンB-25を氏同様目撃、目撃当初は同じ双尾翼機の海軍の96陸攻かと思う。(戦後、米軍資料などあたり、当時の東京府内の飛行ルートを分析し、町の上空を通過したのは、隊長機であるドーリットル機であるとした。早大在学中に谷中に住んでいた作曲家・元参議院議員のいずみたく(今泉隆雄)とともに演劇をしていた。[7]
1959年10月、俳優・佐田豊の妻が経営していた美容院の美容師 坂田光代と結婚(佐田夫妻が仲人を務める)、埼玉県蕨市に新居を建て、美容院「チャーム」を開業。一男一女をもうける。1966年、長男の入学予定の新設校である中央東小学校が高圧線下に開校されることを知ると、反対運動に参加。マスコミ各社に働きかけ、ニュースにも取り上げられた。なかでも、“怒りの小金治”の異名がつく落語家・桂小金治司会の「アフタヌーンショー」(NET;現テレビ朝日)では、局アナ棟方宏一が取材に訪れ、「カラスも止まらぬ高圧線」として放送された。1968年4月、埼玉県草加市に転居し、俳優の杉田俊也、松村彦次郎らと「まつばら団地祭」の企画に参加、駅前広場の横断幕、ポスター、パンフレット、ビラなどを製作。また、草加市立栄小学校のPTA会長を1期務める。1970年、東京外郭環状道路の事業化がされると、沿道の土地収用、排気ガス、騒音問題の改善を求める住民運動にも参加。立て看板やビラ、陳情書の作成を行った。
1971年、「プレイガール」(東京12チャンネル)の横浜外国人墓地でのロケ中、崖から飛び降りる際に左膝下を負傷、陥没骨折となる。
1973年7月28日、外国映画の吹き替え(アテレコ)の再放送に関し、著作権法の適用を求めた声優(日本俳優連合)デモの際には、徹夜で看板を作成した[8]。本件を契機に、芸団協(日本芸能実演家団体協議会・新橋)に所属し、久松保夫、大宮悌二らとともに著作権問題以外にも芸能人年金設立、入場税撤廃などにむけて活動した。その後、声帯ポリープを患ったことにより引退[3]、一時竹田人形座の一員として全国の巡業に参加する。その後は寺の事務長などをしていた[1](川口密蔵院境内図など)。趣味の絵画から戦争の悲惨さを後世に伝え残すべく、自身の体験を元にB-25による東京初空襲、B-29による東京大空襲などの戦争画を荒川区に寄贈した(現在荒川区吉村昭記念文学館所蔵)。2005年7月30日、荒川区の招きで、吉村昭との対談「東京初空襲を語る」が収録された。奇しくも、吉村が点滴、カテーテルポートを自ら抜き自死を選んだのは、その丁度1年後の2006年7月30日夜であった。2008年7月、吉村昭3回忌の追善事業が日暮里サニーホールで開催され、氏との幼い日の思い出と、空襲時の短編を朗読した。2014年12月、自転車運転中に転倒、頭部打撲により苑田第二病院(足立区竹の塚)に救急搬送される。退院が決まり、越谷市の老人施設に入所予定の前日の夜半、誤嚥性肺炎により急死。献体のため日本医科大学に搬送。
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