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日本初とされる近代的国語辞典 ウィキペディアから
『言海』(ことばのうみ[1][2][3]・げんかい[4][3])は、国語学者の大槻文彦が明治期に編纂した国語辞典。「日本初の近代的国語辞典」とされる[5]。
1875年(明治8年)、当時文部省報告課に勤務していた大槻文彦が、報告課長の西村茂樹に国語辞典の編纂を命ぜられ、編纂を開始した。国の辞書があるということは、その国を近代国家として認めさせる手段の一つだったため、当時のドイツ、イギリス、アメリカ、フランスなどでは、国語辞典作りが盛んに行われていた[注 1]。明治政府は「日本が近代国家の仲間入りをするためには、日本語という国語を統一する必要があるから、我が国にも国語辞典が必要だ」と考えたのである[6]。
当初、英語辞典の翻訳で済むと考えていたが様々な事象が大きく違うことで断念、英語辞典の体裁を採用し独自の辞書編纂を進めた[7]。同時に日本語文法の確立が必要と考え、研究も行っている[7]。
1882年(明治15年)に初稿を成立させたが校閲に4年をかけ、完成したのは1886年(明治19年)である。元々は文部省自体から刊行される予定であったが、予算が無いため出版が立ち消えそうになり、1888年(明治21年)自費出版を条件に文部省から稿本が下げ渡しされた[7]。結局1889年(明治22年)から1891年(明治24年)にかけて刊行することになった。 その後、版元は吉川弘文館に移り版を重ねた。1913年(大正2年)の時点で374版に達した[8]。
最初は四六倍判の四分冊として出版され、その後一冊本や上下に分かれた二冊本、判型が異なった小型や中型のものが刊行されていった。大槻の没後に、大幅に改訂がなされた『大言海』も発刊された。戦後には現代版として編まれた『新言海』も発刊されている。
自筆による最終的な下書き本は大槻が保管していたが、死後は他の蔵書や肖像画などと共に、大槻が第8代館長を務めた宮城県図書館に寄贈され『大槻文庫』として所蔵されている[9]。特に言海の自筆稿本は宮城県の指定文化財に指定されている[10]。
五十音引きの国語辞書であり、文語で記されている。収録されている語数は39,103語で[注 2]、固有名詞などは扱っていない。本編の辞書部分の他に漢文で書かれた「言海序」、西洋文法を参考に日本語を体系化した「語法指南」、索引の仕方を書いた「索引指南」なども載っている。
1912年(大正元年)に大槻文彦自身が改訂作業に務めたが、事半ばにして1928年(昭和3年)に没したため、兄の大槻如電らが引き継いだ。如電没後の1932年(昭和7年)より冨山房で刊行された(1937年(昭和12年)に全4巻・索引で完結)。『新編 大言海』(一冊本、冨山房、1982年(昭和57年))等で、度々新版刊行。
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