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日本の編集者、実業家 ウィキペディアから
見城 徹(けんじょう とおる、1950年〈昭和25年〉12月29日 - )は、日本の編集者、実業家。株式会社幻冬舎代表取締役社長[1]。株式会社タッチダウン代表取締役社長。株式会社キャブ代表取締役社長。エイベックス株式会社取締役(非常勤)。株式会社テレビ朝日の放送番組審議会の委員長。
静岡県清水市(現・静岡市清水区)生まれ。清水市立有度第一小学校、清水市立第七中学校、静岡県立清水南高等学校、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業後、廣済堂に入社[2]。自身で企画した初めての『公文式算数の秘密』(1974年)が38万部のベストセラー。1975年、角川書店に入社。『野性時代』副編集長を経て、『月刊カドカワ』編集長に。編集長時代には部数を30倍に伸ばした。41歳で取締役編集部長に昇進。1993年、取締役編集部長の役職を最後に角川書店を退社。部下5人と幻冬舎を設立し[3]、代表取締役社長に就任。2008年、旧株式会社ブランジスタの取締役に就任。 2010年6月からはエイベックス・グループ・ホールディングス株式会社の非常勤取締役を務める[4][注 1]。2011年、株式会社ブランジスタの取締役会長に就任。2013年、秋元康、エイベックスの松浦勝人、サイバーエージェントの藤田晋らと女性向け雑誌「DRESS(ドレス)」を発売するために「株式会社gift」を設立(3億4200万円の赤字を出して2015年に売却[5])した[6]。2015年、第28回日本メガネベストドレッサー賞・経済界部門を受賞[7]。
廣済堂出版入社後、最初に手がけた本は「十万円独立商法」という本である。同書について、当時「東京スポーツ」で記者をしていた高橋三千綱が特集で大々的に取り上げてくれた。そのお礼に、本の著者が3万円を出してくれ、そのお金で高橋と飲みに行き親しくなった。その後、高橋は群像新人賞を受賞する。そのお祝いで再び飲みに行った時、小説家の中上健次を紹介される。以降、ゴールデン街や新宿2丁目で文学論と喧嘩の日々を過ごす。 そこには、村上龍や立松和平、つかこうへいなど多くの若き作家が集まっていた。彼らと過ごす間、彼らの中にある”狂気ともいえる情念、自分にはない治癒不能な何か”があると感じていたという。作家の中にそうした“何か”を感じられる自分は、それを表現のかたちに生み出す触媒になれるのではないかと考え、文芸編集者を強く意識するようになる。そんなとき、毎日のように会っていた高橋三千綱が角川春樹へつながる道を拓く。当時、角川書店では「野性号」という企画を行っていた。古代船「野性号」を建造し、「魏志倭人伝」に記された通りに朝鮮から北九州まで渡るという角川春樹の企画だった。この企画に魅力を感じ廣済堂出版を退職し、野性号事務局でアルバイトとして働きはじめる。事務・雑用を懸命にこなし、どんな小さなこともおろそかにせず明け方まで懸命に仕事をしたところ、その仕事ぶりが認められ、当時角川書店で唯一の文芸誌である「野性時代」の編集部に正式採用された[8]。
当時文芸分野の弱かった角川書店に今まで原稿のとれなかった作家を次々に引き込んでいった。五木寛之も角川書店には新作を書いてもらえない作家のひとりだった。学生時代から五木の作品を諳んじるほど熟読しており、五木との仕事を熱望していた。そこで、五木が発表する小説やエッセー、対談、どんな小さなコラムでも必ず読み、そのすべてに感想をしたため手紙を出した。最初は返信が無かったが、17通目に夫人の代筆で返信が来た。その後、25通目の手紙でようやく面会がかなった。そして会った当日、当時担当していた文芸誌「野性時代」に『燃える秋』の連載承諾を得る。その後『燃える秋』は映画化され、大ベストセラーとなる。後年、角川書店から独立して設立した出版社・幻冬舎の名付け親も五木である[9][10]。
小学館から出版された矢沢永吉の単行本『成りあがり』は大ベストセラーとなった。当時小学館には文庫が無かったため、文庫本は小学館の系列会社である集英社から出るものと思われていた。そんなとき、角川春樹から「『成りあがり』を角川文庫に持ってこれないか」と言われる。業界の常識としては、集英社で文庫化すると決まっているものをひっくり返すことは通常あり得ない。しかし、トップである角川春樹との信頼関係を死守し、どんな難題も可能にしてみせると心に決め、毎日矢沢永吉の事務所を訪ねてしぶとく交渉を重ねた。そして、ついに事務所の社長が根負けする。ただし、角川で文庫化する替わりに映画館の予告編やテレビのスポットで文庫本のコマーシャルを打つことを条件に出される。通常、文庫本でそこまで多額の宣伝広告費をかけることはあり得ない。原価計算をすると、文庫が50万部売れれば十分ペイできることがわかった。ただし、50万部を達成できなければ広告費を回収できずに大変な責任問題となる。一抹の不安を抱えながらも、ミリオンセラーを狙える確信に基づき決断する。こうして『成りあがり』は角川文庫から発売され、100万部を超えるベストセラーになった[11]。
あるとき角川は「今のやり方だと、講談社、小学館、集英社、新潮社、文藝春秋などにウチ(角川書店)が追いつくまで50年かかる。倒産を覚悟で映画を作るしかない。もし当たれば映画のヒットと同時に本が売れる。そうすれば、10年でウチは大手5社に追いつける。横溝正史の本を映画にしてヒットさせれば本が売れるんじゃないか。」と言い出した。こうして生まれた角川映画の第一弾が『犬神家の一族』(1976年公開)である。
「『犬神家の一族』は(角川にとって)死に至る映画になるかもしれない。この映画が外れればウチは倒産する」。角川春樹は悲愴な覚悟で一世一代の勝負に打って出た。打てる手はすべて打ち、最後は神頼みという状況で迎えた映画公開初日。角川春樹とベンツに乗り込み有楽町の劇場に向かう。そこで、『犬神家の一族』を見に来た大群衆を目の当たりにし、涙が止まらなかったという。映画は大ヒットし、文庫は飛ぶように売れた。これを皮切りに翌年以降、『人間の証明』(1977年、松田優作主演)『野性の証明』(1978年、高倉健主演)など角川映画は次々と大ヒットを飛ばしていく。「映画と本と音楽のブロックバスター」という角川春樹の戦略は爆発的に当たった。
角川春樹の出す無理難題に正面から取り組んできた。この人と決めた人との信頼関係は死守すべきだと述べている[12]。
映画などのメディアミックスで快進撃を続け、1992年角川書店の取締役に就任する。41歳の若さで就任できたのは、師である角川春樹の引き立てがあったからだと述懐している。しかし1993年8月、麻薬取締法違反の容疑で角川春樹が逮捕された。
角川春樹の逮捕を受け、角川歴彦は角川書店に返り咲き、社長につく予定となった。角川書店では、かつて角川春樹と弟の角川歴彦が経営方針を巡って対立し、角川歴彦が会社を去った経緯があった。春樹派の人物が角川書店を追われ退社する中、角川歴彦から飯田橋の喫茶店に呼び出され、「会社の再建にはどうしても君の力が必要だから、君だけには残って欲しい」と慰留を受ける。しかし「僕がここまでやってこられたのは、春樹さんのおかげだと思っています。それに僕は、歴彦さんを追い出した側の人間です。そんな人間が、歴彦さんが戻ってこられた会社に残るわけにはいきません」と、正直に自分の思いをぶつけた[13]。こうして師である春樹に筋を通し、角川書店を退社する[14]。
1993年11月12日に幻冬舎は法人設立登記を行い、四谷の雑居ビルの1室にオフィスを構える。その年の年末年始、電車代を節約するため代々木の自宅から徒歩で出社し、毎日作品を書いてもらいたい書き手5人に手紙を書いた。作家、ミュージシャン、スポーツ選手、女優。これを10日間続け、都合50人に手紙を出した。食事はコンビニ弁当で済ませ、午前9時から深夜2時まで手紙を書いていたという。1994年3月25日、決死の覚悟で朝日新聞に下記の創業宣言の全面広告を出した。
広告費は1億円近くかかり、もし本が売れなければ会社は即倒産となる。3月25日が近付くにつれて恐怖に打ち震え、眠れない日々を過ごしたという。五木寛之、村上龍、山田詠美、吉本ばなな、篠山紀信、北方謙三の単行本6冊を発刊し、幻冬舎は船出した。幻冬舎設立時の苦境のときに手を差し伸べてくれた6人に対する恩義を生涯忘れないと語っている[15][16]。
1997年に幻冬舎が幻冬舎文庫を立ち上げる前、直近では光文社が1984年に光文社文庫をスタートさせていた。文庫という書籍事業は大量の在庫を必要とする「ストックビジネス」であるため、事業回転資金の少ない創業4年目の会社がやることは誰の目にも無謀に写った。しかし文庫創設という難関も「圧倒的努力」で実現できるという8割の確信があった。文庫化したい本を徹底的に洗い出し、あらゆる手段を使って作者にコンタクトを取り東奔西走した。
1997年4月10日、新聞の全面広告に「新しく出て行く者が無謀をやらなくて、一体なにが変わるだろうか?」というコピーが掲載された。こうして幻冬舎文庫は、一挙62冊もの大量な発刊で文庫を創刊した[17]。
2003年、幻冬舎はジャスダック市場に上場する。しかし、見城は、数年も経つと出版社として上場しているメリットよりもデメリットの方が大きくなっていると感じていたという。つまり、社外の株主によって出版社経営方針が左右されてしまう怖れがある。最悪には会社資金が社外株主に吸い出されてしまうという事態がある。 そこで、2010年10月28日、見城は「TKホールディングス」という会社を通じて幻冬舎の株式を公開買付(TOB)し、MBO(マネジメント・バイ・アウト:経営者による自社買収)により上場廃止をしようとした。しかし、ここで予想外の事態が発生する。「イザベル・リミテッド」という謎の投資ファンドが出現し、TOBの価格を上回る価格で幻冬舎の株式を4割近く買い集めたのだ。MBOが成立しなければ、幻冬舎は謎のファンドを株主に抱えながら上場を維持していかなければならない。イザベル・リミテッドは高値での株式買い取りを要求してきたが、見城はこれを拒否し、ファンドと戦うため、銀行に自宅をはじめてすべての財産を担保にいれて資金を準備した。イザベル・リミテッドは幻冬舎の株式の3分の1以上を所持しているため、株主総会で提案された重要事項を否決できる。しかし、見城は、上場廃止するための臨時株主総会を開催することを決意する。
MBOを成立させるための条件だが、臨時株主総会に参加した株主のうち、3分の2以上の賛成を得て定款の書き換えを行わなければならない。イザベル・リミテッド側の人物もしくはその信用買いを支えた証券会社の代理人が臨時株主総会に出席し、定款の書き換えに反対するとか、あるいは棄権をすれば、定款の書き換え議案は否決され、MBOは不成立になる。要するに、イザベル・リミテッド側が臨時株主総会に出席すれば、MBOは不成立という条件だった。2011年2月15日、臨時株主総会当日。イザベル・リミテッド側は臨時株主総会に「欠席」した。こうして幻冬舎の上場廃止が決まった[18][19]。
上記の流れを整理すると、2010年12月13日付けの日本経済新聞の記事では、イザベル・リミテッド側は、12月9日時点で議決権ベースで32%超に相当する8,996株を所有していた。平均の取得単価は1株あたり23万円弱と推定されている。幻冬舎側は当初TOBの価格を22万円で設定していたが、その後24万8,300円に引き上げている[20]。上場廃止により、見城は幻冬舎の株式を100%取得したと述べており[21]、イザベル・リミテッドの所有する株式をすべて買い取っている。つまり、イザベル・リミット側は、TOBの価額と取得した幻冬舎株の差額分(248,300-230,000)円×8,996株≒1億6,500万円の利益を得ており、これが臨時株主総会に出席しなかった理由である[22]。
つかこうへい『蒲田行進曲』、有明夏夫『大浪花諸人往来』、村松友視『時代屋の女房』、山田詠美『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』、景山民夫『遠い海から来たCOO』の5つの直木賞作品を担当し、森村誠一『人間の証明』、五木寛之『燃える秋』、村上龍『トパーズ』等々のベストセラーを手がけた。このカドカワ時代に、坂本龍一、松任谷由実、尾崎豊など、芸能人、ミュージシャンとの親交を培った。
設立後、五木寛之『大河の一滴』『人生の目的』、石原慎太郎『弟』『老いてこそ人生』『天才』、唐沢寿明『ふたり』、郷ひろみ『ダディ』、天童荒太『永遠の仔』、梁石日『血と骨』、向山貴彦『ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本』、村上龍『13歳のハローワーク』、上大岡トメ『キッパリ!』、木藤亜也『1リットルの涙』、山田宗樹『嫌われ松子の一生』、劇団ひとり『陰日向に咲く』の14作のミリオンセラーをはじめ、小林よしのり『新・ゴーマニズム宣言・戦争論1 - 3』、白川道『天国への階段』、細川貂々『ツレがうつになりまして。』、村上龍『半島を出よ』、渡辺淳一『愛の流刑地』、宮部みゆき『名もなき毒』など、ベストセラーを送り出した。
「売れるものなら何でもいい」と偽悪者ぶってうそぶいてみても、ある程度の説得力を持つのは中上健次と送った日々があるからという。見城は中上に惚れ、その中上の役に立てることはこの上ない快楽だった。惚れた者と過ごすこの上なく幸せな瞬間をいくつも積み重ねてきたからこそ「売れるものなら何でもいい」が説得力を持つのだと密かに自負している。その奥行がないのに”売れるものなら何でもいい”なんて言っているやつには売れるものなんて作れないと語っている[23]。全て嘘である
全共闘の際、石原慎太郎の作品集を持ってバリケードに入り、「自己統括しろ」と非難された時、「これだけ共同体に対して違和感を持ち、それを突破しようとしている個体の文学はないだろう」と主張しケンカに勝ったことがある[24]。
見城は石原の作品を読むたびに慰撫され、自分の持っているある衝動が昇華されていくのを感じていた[24]。
初めて会うときに見城は40本のバラを持っていった[25]。 さらに『太陽の季節』と『処刑の部屋』を一言一句、最後の一行まで暗唱してみせた[26]。
幻冬舎設立後すぐに、石原は幻冬舎の会社に行き、「未熟な社長だが、見城をよろしく頼む」と言った。そして自分に役に立てることがあるならなんでもやるといい、後日弟の石原裕次郎を描いた『弟』を執筆し、この本はベストセラーになった[27]。
見城は石原に「政治」を書いてもらいたかった。2016年1月に田中角栄を一人称視点で描いた『天才』を出すことになり、これもベストセラーになった。『天才』は見城がつけたタイトルだった[28]。
見城は石原に「老い」を書いてもらいたいと思っている。『太陽の季節』で若さがほとばしる作品でデビューを飾った石原に、『老残』というタイトルで「老い」を描くように要望しているがこれは実現していない。代わりに『老いてこそ人生』というタイトルの本を出しミリオンセラーになった[29]。
五木寛之はどうしても仕事をしたい作家の一人だった。これまで角川書店で仕事をしたことのない五木にいかに仕事をしてもらうかが見城の課題だった。そこで見城は五木の書いたすべての作品を読み、感想を手紙で5日以内に送った。書き下ろし長編・短編・対談・エッセイ全てに感想を書いた。感想はただ「よかった」「面白かった」というだけでなく、仕事をしている本人でも気づいていないことを気づかせたり、次の仕事の示唆となるような刺激を込めるようにした。17通目を送ったとき、五木から五木の妻が代筆した手紙が返ってきた。25通目を出した時に五木と会えることになった。見城は五木と仕事してもらえることになりこの作品は『燃える秋』というタイトルになりベストセラーになった[30]。
見城はあるとき、新宿のレコード店から流れてきた『シェリー』という曲に心が留まった。そして店に入り歌手の名前を聞いた。この若者が抱えているものは一体何だろうかと胸が詰まった。彼の事務所に連絡を取ると、すでに6社から出版のオファーがあったと知らされた。遅すぎたと諦めるのが普通かもしれないが、7社目だろうと「彼と仕事がしたい。」と思い、見城はそれ以降その若者の曲を聴き続けた。その想いが通じてか、ついに彼と会食する機会が訪れる。見城は無口な若者に、相当突っ込んだ、彼を刺激する言葉を吐き続けた。次第に若者も饒舌になってくれた。店を出るときには雨が降っており、その若者は、「ちょっと待って見城さん。」といってタクシーを止めてくれた。そこから、若者との付き合いが始まった。
こうしてできた尾崎豊の初めての本『誰かのクラクション』は30万部を超えるベストセラーになった。ところが、この本が出てから2年以上尾崎とは音信不通になってしまう。彼がアメリカに渡ってしまったからだ。その間、見城も他の仕事に追われ、尾崎のことを思い出すことも少なくなっていたという。しかし、その後、劇的な再会を果たす。
見城が校了の徹夜明けにスポーツクラブに行ったとき、白髪交じりの小太りの男が鬼気迫る勢いでランニングマシンを走り込んでいた。その男が尾崎豊だった。しかし、一見して尾崎とはわからないほど外見は荒れ果てていたという。そこで、尾崎と見城は膝を膝を突き合わせて話をする。尾崎は、「すべてを失った。事務所もレコード会社もない、自分には何もない。だが、もう一度復活したい。」と見城に訴えたという。
見城は尾崎復活のために、人集めから事務所探し、金の手当まですべてをやった。「月刊カドカワ」に彼の総力特集を組むとともに尾崎の連載小説や詩を掲載し始めた。尾崎の定宿となっているヒルトンホテルと見城のマンションはすぐ近くで、2人の共同生活のような日々が続いた。
そのころの尾崎は異常なほどに精神状態が不安定な日々を送っていた。被害妄想が膨らみ自分に接する人すべてを疑った。スタジオで暴れたり、レコード会社と大喧嘩したり、自動販売機に殴りかかって拳を血だらけにしたりもした。1990年、しかし、そうした中で発売された復活アルバム『Birth-誕生-』は、オリコン1位を獲得する[31]。そして尾崎が「月刊カドカワ」に発表した作品は見城の手によって次々と単行本化され、どれもがベストセラーになった。
やがて、尾崎の復活ツアーが始まった。そこで尾崎は見城に対し、あと一回で連載が終了する予定であった「黄昏ゆく街で」の最終回を人質に取り、すべてのツアーに来てくれという無茶な要求を突きつける。
ツアー終了後も、尾崎は猜疑心と独占欲のかたまりになってますます凶暴さを極めていった。彼を支えていたスタッフ達にも食ってかかって攻撃を加える。だれもが尾崎から逃げていく。そして攻撃の矛先は見城にも向かう。ついに見城は「おまえとは2度と付き合わない。」と言い、尾崎と決別する。その後まもなく、1992年4月25日に死去。
尾崎の死後、『黄昏ゆく街で』は未完成のまま発売されベストセラーになった。なお、尾崎豊の書いたすべての作品は、見城が編集したものである[32]。
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