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神宮祭主藤波光忠の子として、文政6年(1823年)に生まれる。
文政10年(1827年)、5歳で叙爵。天保2年(1831年)、9歳で元服、昇殿を許され、同日に従五位上神祇権大副となった。天保10年(1839年)には17歳で父から祭主職を継承した。弘化3年(1846年)、従三位に叙され、公卿に列する。翌年には推叙により正三位へ昇叙した。嘉永元年11月25日(1848年12月20日)、寿詞を奏上した賞で直衣を許される。翌年には第54回神宮式年遷宮を斎行した。
安政5年3月12日(1858年4月25日)、日米修好通商条約締結の条約案について、その内容の撤回を要求する書状に連署した(廷臣八十八卿列参事件)[1]。
文久2年5月11日(1862年6月8日)には、非蔵人の行う国事書類の筆写を担う国事御用書記の一人に任じられた[2]。しかし、同年12月9日(1863年1月28日)に国事御用掛が設置されたことにより解任される。元治元年6月25日(1864年7月28日)には、関白二条斉敬に対して、横浜鎖港実施を幕府へ要求する一条家門流三十八卿建議に参加している[3]。
こうした動きもむなしく、明治維新を迎えた。
維新後も神宮祭主であり続け、明治2年(1869年)の第55回神宮式年遷宮を斎行した教忠だったが、維新政府の改革のメスがついに入ってしまう。神宮の神官世襲廃止の布石として、明治4年1月28日(1871年3月18日)、祭主を罷免されてしまった[4]。神宮に対しては同年5月14日(7月1日)に神官世襲廃止が通知された[4]。
明治9年(1876年)12月25日、家督を婿養子に迎えた藤波言忠に譲って隠居する[5]。
明治19年(1886年)には五辻高仲・山井氏暉と共に特旨を以て同日昇叙、教忠と高仲は正二位に、山井は従二位に叙された[注 1]。
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