荏田宿
神奈川県横浜市青葉区荏田町に位置する大山道の宿場 ウィキペディアから
神奈川県横浜市青葉区荏田町に位置する大山道の宿場 ウィキペディアから
荏田宿(えだじゅく)は、かつて武蔵国都筑郡荏田村(現・神奈川県横浜市青葉区荏田町)にあり、大山道(矢倉沢往還)が通っていた宿場[1]。
旅籠屋をはじめ、さまざまな商人・職人が居住し、合計二十数軒の家屋が連なっていたが、1894年(明治27年)の火災により焼失した[2]。
荏田宿の周辺には多数の古墳のほか、荏田城址など、各時代の遺跡が残る。現在、旧荏田宿周辺では国道246号と旧道(新横浜元石川線)が交差するほか、東名高速道路、東急田園都市線が通行しており、長者原遺跡(都筑郡の郡衙の跡)など、インフラ整備に伴い失われた遺跡もあるが、数カ所で当時の様子を偲ぶことができる[3]。
荏田宿の発祥は、江戸時代初期までさかのぼる[4]。江戸時代の大山道(矢倉沢往還)は、大山へ詣でる人々や江戸への物流の道として盛んに利用されていた[4]。荏田宿は「お江戸日本橋を朝発ちて、夕方たどり着くのが荏田の宿」といわれた[4]。その理由は、江戸から七里(約27.49キロメートル)の荏田宿は足の弱い子女連れの旅や悪天候の日の場合に、江戸から一日目の宿として適していたためである[5][4]。
荏田宿は西に向かって下宿、中宿、上宿の3つに分かれていた[4]。1863年(文久3年)頃には35軒の宿と店が矢倉沢往還沿いにあったという[4]。それより前の1831年(天保2年)、画家・思想家であった渡辺崋山が矢倉沢往還を旅行した際、荏田宿の旅籠升屋に宿泊した。華山の著した『游相日記』[6]の中に関連する記述が見られる。しかし、荏田宿は1894年(明治27年)の火災により焼失したため、往時の面影を残すものはない[4]。
2016年(平成28年)、荏田宿の旧宿場町エリア内2か所に江戸時代の屋号や宿場町全体の様子などを載せた案内看板が設置された[7]。この案内看板は、地元の荏田宿保存会が作成したものである[7]。保存会発起人の一人が「先人たちが脈々とつないできたものを形にして残したい」と計画し、当時の史料に記載されていた34軒中、連絡が取れた20軒の賛同により保存会が材料費などを負担して制作したものである[7]。
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