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埼玉県さいたま市見沼区の大字 ウィキペディアから
さいたま市見沼区東端部に位置する。西で東宮下、北で大谷と加田屋、東で岩槻区谷下 、柏崎と横根、南で緑区上野田と高畑に隣接する。概ね綾瀬川の右岸、見沼代用水東縁(一部は加田屋川)左岸にあたる。
大宮台地の鳩ケ谷支台がある西側を埼玉県道105号さいたま鳩ヶ谷線(日光街道の脇往還の日光御成街道で、旧国道122号)が通り、古くからの人家が立地するほか、一里塚も残る[4]。さらに西側の見沼代用水東縁や加田屋川沿いの低地にはかつて見沼が広がっていたが、干拓されて現在は田圃や都市公園となっている。東部の綾瀬川沿いの後背湿地には、明治初期までは旧流路が膝子沼として広がっていたが、干拓されて現在は田圃となっている。また、区域区分は全域が市街化調整区域に属する[5]。
最寄駅は東武野田線(東武アーバンパークライン)七里駅だが、駅から2キロメートル以上離れている。駅から当地区まで国際興業の路線バスが運行されているが、本数が少ないため、に公共交通機関の便はあまり良くない。
かつては立場を成して栄えたというが[4]、現在は街道沿いに古くからの人家などが疎らにあり、農地が広がる農業地域[4]である。縄文時代中期の中道遺跡[6]や縄文時代後期で県重要遺跡の膝子遺跡が存在する[4]。
かつては江戸期から存在した武蔵国足立郡南部領に属する膝子村であった。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では607石余(田450石余、畑156町余)、『元禄郷帳』では696石余、『天保郷帳』では726石余であった[6]。助郷は日光御成街道大門宿に出役していたが、寛保・宝暦年間は中山道大宮宿にも代出役していた[6]。化政期の戸数は93軒で、村の規模は東西8町余、南北10町余であった[6][8]。慶安年間には光徳寺に寺領13石が寄進されていた[9][6]。綾瀬川には明見河岸が設けられていた[10][6]。
当地に残る膝子塚から。かつて農家の妻が奇形児を産んだが、それが人の膝のように見える肉塊で、それを塚に埋めたためにこの名がついたといわれている[6][11]。
市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[18]。
番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
全域 | さいたま市立東宮下小学校 | さいたま市立七里中学校 |
町域内に鉄道は敷設されていない。最寄駅は東武野田線(東武アーバンパークライン)七里駅となる[19]。
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