結城一朗
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結城 一朗(ゆうき いちろう、1904年7月20日 - 1988年9月15日)は、日本の俳優、演劇プロデューサーである[1][2][3][4][5][6][7]。本名松崎 龍雄(まつざき たつお)、旧芸名結城 一郎(ゆうき いちろう)[1][2][3][4][6][7]。1930年代、松竹蒲田撮影所の青年スターであり、戦後は舞台や音楽のプロデューサー、テレビ出演に進出した[1][2]。
1904年(明治37年)7月20日、東京府東京市牛込区砂土原町(現在の東京都新宿区市谷砂土原町)に生まれる[1][2]。父・松崎愛治は結城の出生当時、扶桑銀行[8](のちの神国銀行、1918年破産[9])の頭取で、結城はその長男として生まれ[1][2]、父母の間にはその後、3人の弟と4人の妹が生まれた[1]。
神奈川県三浦郡逗子村(現在の同県逗子市逗子)の旧制・逗子尋常小学校(現在の逗子市立逗子小学校)、旧制・東京市牛込尋常小学校高等科(現在の新宿区立牛込仲之小学校)を経て、旧制・東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)を1921年(大正10年)3月に卒業する[1]。同年4月、旧制・第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に進学するが、肋膜炎に罹患し、中途退学を余儀なくされる[1][2]。闘病期間を経て、旧制・日本大学の夜間商科に入学、昼間は国際活映(国活)でタイトル字幕検閲台本を書く仕事に就いた[1][2]。
1924年(大正13年)に同学を卒業、松竹蒲田撮影所の脚本家・武田晃の紹介を得て、同年11月、同撮影所に入社する[1][2]。結城は、宣伝部に配属されるものと思っていたが、配属先は俳優部であった[1]。翌1925年(大正14年)1月6日に公開された『懐しの蒲田 前篇』に端役で出演、映画界にデビューした[1]。デビューにあたっての芸名「結城 一郎」は、のちに大蔵大臣や日本銀行総裁を歴任した銀行家の結城豊太郎、およびのちに東京美術学校名誉教授を務めた日本画家の結城素明から「結城」を、友人でもあった活動弁士の山野一郎から「一郎」を拝借したものであった[1]。この時期、多くの映画に端役で出演したが、出演記録は不明である[1][2][3][4][6][7]。同年6月、同社を退社し、翌7月、聯合映画芸術家協会に参加、高田保が監督した『水の影』に御橋公とともに主演格で出演、同作は同年10月15日に公開されたが、興行結果は悪かったという[1][3]。結城はそのまま、高田保に食客となり、翌年の1926年(大正15年)1月からは、雑誌『アール』の編集を手がけていた[1]。同年5月までは同編集部に働いたが、東京・銀座で偶然に再会した松竹蒲田の映画監督・池田義信の助力により、同年10月、松竹キネマに復帰した[1]。以降、現代劇に多く出演した[1][2][3][4][6][7]。
1929年(昭和4年)、準幹部に昇進し、同年4月13日に公開された小津安二郎監督の『学生ロマンス 若き日』で初主演を果たし、同作をもって「結城 一朗」と改名した[1]。翌1929年(昭和4年)、幹部に昇進する[1]。1935年(昭和10年)初頭に京都の松竹下加茂撮影所へ異動、時代劇、剣戟映画に転向した[1][2][3][4][6][7]。1936年(昭和11年)9月に、松竹蒲田撮影所時代に共演した、6歳下の女優・花岡菊子(本名滝川幾代、1910年 - 1984年)と結婚、2男1女をもうけた[1][10]。この時期、関西映画俳優協会(のちに合流して現在の日本俳優協会)の書記長を務めた[1]。1941年(昭和16年)秋に松竹を退社、演劇の実演を日本全国各地、日本統治時代の朝鮮、満州国(現在の中華人民共和国東北部)を巡業した[1]。第二次世界大戦中、松竹に復帰したが、1944年(昭和19年)に退社している[1]。
戦後は、演劇・音楽の興行におけるプロデューサーに転向し、活動した[1]。1960年(昭和35年)前後からは、テレビ映画の分野や舞台で俳優業に復帰したが、映画出演はなかった[1]。一方、妻の花岡は、戦後も東宝から新東宝に移り、多く出演した[10][11]。
満75歳を迎えた1979年(昭和54年)、マツダ映画社が製作した『地獄の蟲』(監督山田達雄)に夫婦ともども出演し、58年ぶりにスクリーンに姿を見せた[1][2][3][4][6][11]。1984年(昭和59年)6月12日、妻・花岡菊子が満73歳で死去した[10]。1986年(昭和61年)8月2日に公開された映画『キネマの天地』(監督山田洋次)では、当時の蒲田を知る者としてスタッフ参加、「風俗考証」としてクレジットされた[7][12]。
すべてクレジットは「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[7][13]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。
製作・配給は「聯合映画芸術家協会」、サイレント映画である[3][4]。
特筆以外すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、すべて配給は「松竹キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画である[3][4]。改名時点を明記した[1]。
特筆以外すべて製作は「松竹下加茂撮影所」、すべて配給は「松竹キネマ」、特筆以外すべてトーキーである[3][4]。
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