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竹田 喜之助(たけだ きのすけ、大正12年(1923年)6月27日 - 昭和54年(1979年)9月5日)は、日本の人形師。本名は岡本 隆郎(おかもと たかお)[1]。
1923年(大正12年)、岡山県邑久郡邑久町豊安(現・瀬戸内市邑久町)に生まれる[1]。岡本家は呉服商の大店であり、隆郎は長男だった[1]。邑久村尋常小学校(現・瀬戸内市立邑久小学校)、岡山第一中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を卒業後、旧制第六高等学校(現・岡山大学)を経て[1]、1943年(昭和18年)に東京帝国大学工学部航空工学科に入学[2]。1950年(昭和25年)に東京大学第二工学部航空工学科を卒業[3]。卒業と同時に人形芝居の結城孫太郎一座に弟子入りし、隆郎は結城糸城三(しきぞう)を名乗った[1]。1955年(昭和30年)4月、結城孫太郎は竹田三之助と改名し、竹田人形座を設立[1]。寛文年間(1660年頃)からの伝統を持つ竹田人形芝居を復興させ、喜之助もこれに参加した[1]。
1965年(昭和40年)の三之助の他界後は、養子となった竹田扇之助が跡を継ぎ、喜之助も扇之助の右腕として活躍した。1970年(昭和45年)の大阪万博では住友童話館で「つる」を連日公演し、総公演回数は1,442回に及んだ[1]。竹田人形座は1972年(昭和47年)からは西ドイツを皮切りにイギリス、スウェーデン、フランス、デンマークなどヨーロッパ諸国やアメリカでも公演を行い世界的に有名になった。また、テレビ人形劇にも多くの作品を残した。喜之助は約2,600体の糸操り人形を作成し名声を馳せた。独自の技術が盛り込まれたその人形は「喜之助人形」と呼ばれた。中でも「雪ん子」は傑作と言われている。
1979年(昭和54年)8月31日にはバイクでの帰宅中にトラックと衝突する交通事故に遭い、9月5日に死去[1]。56歳だった。
喜之助を失った竹田人形座は活動休止に追い込まれた。座長であった扇之助は喜之助の作成した人形などを、郷里の長野県飯田市に寄贈した。1990年(平成2年)には飯田市に「竹田扇之助記念国際糸操り人形館」が開館し、扇之助が館長に就任、喜之助の人形などが展示されている[4]。
また、喜之助の郷里である瀬戸内市の邑久郷土資料館内には「喜之助記念室、喜之助フェス記念室」が設置され、人形製作室が復元されたほか、代表作「雪ん子」や遺品などの展示が行われていた。その後、2016年(平成28年)に開館した瀬戸内市民図書館「もみわ広場」には「喜之助ギャラリー」が設置され、喜之助人形が展示されている[5]。また、瀬戸内市は1988年(昭和63年)より例年8月第3土・日曜日ごろに瀬戸内市中央公民館にて糸操り人形劇を中心とした「瀬戸内・喜之助フェスティバル」を開催している。2015年(平成27年)には「瀬戸内・喜之助フェスティバル」の中で約30年ぶりに「雪ん子」が上演され、連日満員の観客を集めた[6]。
など
出典 : 瀬戸内・喜之助フェスティバル[1]
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