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1756?-1810, 江戸時代の医者、戯作者、蘭学者、狂歌師 ウィキペディアから
森島 中良(もりしま ちゅうりょう、宝暦6年(1756年)? - 文化7年12月4日(1810年12月29日))は、江戸時代の医者・戯作者・蘭学者、狂歌師。奥外科医桂川家3代目桂川甫三の次男で、桂川甫周の弟にあたるが、寛政頃まで家祖桂川甫筑の元姓である森島(森嶋)を名乗った。幼名は友吉、字は虞臣(やすとみ)、通称は次郎・万蔵。号は中良、後に甫斎、甫粲(山)。狂名は竹杖為軽(すがる)。森羅万象(まんぞう)・築地善交など多数の変名を持つ。
平賀源内の門人で、源内を忠実に継承した文体は平賀風(ひらがぶり)と称された。蘭学者としての側面が強調されがちであるが、蘭学者としての活動は寛政期のみで、その著作の多くを戯作が占める。
江戸木挽町築地中通(現・東京都中央区築地一丁目10番)に奥外科医桂川家3代目桂川甫三と寄合医師大八木家4代目高豊の娘・大八木玄忠高泰の養女の次男として生まれ、生涯を生家で過ごし、兄の著作や訳業を助けた。生年は宝暦4年(1754年)説と宝暦6年(1756年)説がある。前野良沢・平賀源内・杉田玄白・林子平・中川淳庵・司馬江漢・朽木昌綱・宇田川玄随・大槻玄沢・前野良沢・荒井庄十郎などの多くの文化人と交流があった[1]。
中島理右衛門の書簡から、明和元年(1764年)頃平賀源内に入門したことがわかっている。確実な最古の活動は源内著で安永7年(1774年)7月刊の『吉原細見里のをだ巻評』に「門人無名子」として寄せる跋文であるが、それに遡って明和5年(1768年)2月刊『痿陰隠逸伝』賛・咦の「無名禅師」及び跋の「後学陳勃姑(ちんぼこ)」、安永3年(1774年)素外側歳旦集に「梅か香に近寄宿や」の作者「万象」についても中良の可能性が指摘されている。「門人無名子」とは源内作の戯作「木に餅の生弁」の登場人物を仮託したものである。
安永8年(1779年)福内鬼外(平賀源内)・二一天作と合作で『神霊矢口渡』の後日物『荒御霊新田神徳』を手がけ、初めて創作活動に携わった。中良は鎌倉御所の段・矢口神前の段を担当し、森羅万象(まんぞう)の号を用いた。万象とは自身の通称万蔵に、鼻が大きい容姿を読み込んだものである。同年、海一沫・吉田鬼眼・達田弁二と共に『幡随長兵衛・白井権八 驪山比翼塚』を手がけ、中之段三場を担当するが、これが大いにヒットし、文壇で認められる契機となった。しかし、『平賀源内小伝』によれば、当時癇癪の気味があった平賀源内はこれに大いに嫉妬し、11月に堺町肥前座の楽屋で中良を顔色を変えて罵り、中良は会釈で応じるのみだったという。10日ばかり後、源内は11月21日に殺傷事件を起こして小伝馬町に投獄され、12月18日獄死し、確執を生んだままの離別となった。この時用いた号は、平賀源内より二字を取った「源平藤橘」だったが、以降用いることはなかった。
安永9年(1781年)1月、天竺老人・森羅万象名義で『真女意題』を表したのを皮切りに、天明年間に亘って洒落本を精力的に刊行した。 天明4年(1784年)1月、『万象亭戯作濫膓』で黄表紙デビューし、天明8年(1788年)まで毎年数作のペースで作品を発表した。
天明5年(1785年)には竹杖為軽の号を門人に譲り、翌年には天竺老人を門人千鶴万亀に、森羅亭を一粒万倍に譲った。この頃より家業の医業にも本格的に携わる。
この頃より蘭学にも関心を向け、天明7年(1787年)に『紅毛雑話』、寛政2年(1790年)に『万国新話』『琉球談』と相次いで蘭学書を出版した。
しかし、天明7年(1787年)には寛政の改革が始まっており、翌年に『夭怪着到幉』を匿名で刊行した後、黄表紙は執筆を中断し、『西洋奇談』『万象雑俎』なども刊行を断念した。『海国兵談』を執筆し幕府に注視されていた林子平からの書状を黙殺し、交わりを絶った。逆に少なくとも寛政6年(1795年)より寛政9年(1798年)まで松平定信が藩主を務める白河藩に出仕し、御小納戸格を務めた。石井庄助と共に『遠西本草攬要』に携わったとされる。後に加賀藩にも仕官を請われるが、数か月で辞した。
松平定信が失脚した寛政5年(1793年)、戯作者芝全交が死去し、看板作家を失った版元鶴屋吉右衛門の依頼により黄表紙の執筆を再開し、築地(月池)善交(善好)名義で洒落本を3作発表した。なお、この号に関しては坂東善次に比定する説もある。
享和元年(1801年)に二代目風来山人を襲名、文化5年(1808年)より二代目福内鬼外の号も使い始め、懐古主義を前面に押し出した。文化6年(1809年)に最後の作品『泉親衡物語』を発表し、翌年死去した。法名は量山日寿。墓所は芝二本榎上行寺、後に神奈川県伊勢原市に移転した。
生涯独身とされてきたが、過去帳調査により、妻子・孫の存在が確認されている。妻は法名量因妙智で、中良没後ちょうど20年にあたる文政13年(1830年)12月4日に死去している。息子森島甫山自体は過去帳には見いだせないが、夭逝の孫2人の記載がある。
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