Loading AI tools
日本の愛媛県(伊予国)にあった郡 ウィキペディアから
新居郡(にいぐん)は、愛媛県(伊予国)にあった郡。旧・神野郡(かんのぐん、かみのぐん)。
西日本最高峰である石鎚山の麓であり、古代から人々が居住していたとされ、第12代景行天皇の皇子である武国凝別命が平定の為、四国伊予の東部地方(のちの神野郡、新居郡、現在の新居浜市・西条市ほか)に派遣され、拠点を置いたと伝わる。成務天皇7年に皇祖神である天照大神と国土開発の祖神である武国凝別命を祀り伊曽乃神社が創建されたという(武国凝別命の子孫は一帯に広がり、「別」の子孫が治めた事から「別子」(べっし)の地名が生まれたとの伝承も残っている)。
この地域は伊曽乃神社などにより、古くから神が祀られていた為、「神野」(神の地)と呼ばれていたとされている。
大宝元年(701年)の大宝律令制定前は神野評(かんのこおり)と記されており、律令制定による地方の行政区画国郡里制によって神野郡となった(天平10年(738年)の法隆寺資財帳には「伊豫国神野郡在一所天平十年納賜」との記述が残されている)。
霊亀3年(717年)には国郡郷里制により神野郡に六の郷(丹上郷、丹比井郷、島山郷、賀茂郷、神戸郷、橘郷)が置かれた。
延暦11年(791年)、六国史の『続日本紀』によると嵯峨天皇の諱が乳母の出身地である神野郡から賀美能(神野)親王と名付けられ、同じく功績を認められた乳母にも賀美能宿禰の称号が贈られた。 これにより神野郡は嵯峨天皇の諱に触れるため朝廷にて改名が生され、大同4年に新居郡(現在の新居浜市・西条市)が誕生した。[1]
鎌倉時代(建長)から戦国時代にかけて新居郡は武蔵武士の流れをくむ金子氏(金子城)の城下町として繁栄した。
江戸時代の寛永13年(1636年)、伊勢神戸5万石の領主であった一柳直盛が、1万8000石の加増を受け、計6万8000石で新居郡に転封となり、西条藩が置かれて紀州徳川家と深い関わりをもちながら発展した。さらに元禄4年(1690年)に別子銅山が開坑され、住友家が経営をしながら関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。
それ以降、新居浜と西条の二つの町は工業分野を中心に発展した。
明治11年(1878年)の郡区町村編制法が愛媛県で施行されると、行政区画としての新居郡が発足して郡役所が西条町に設置された。
昭和31年に加茂村・大保木村が西条市に、昭和34年に角野町が新居浜市にそれぞれ編入され、新居郡は消滅した。
「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。(52村3浦)
知行 | 村数 | 村名 | |
---|---|---|---|
幕府領 | 松山藩預地[2] | 6村 | 大永山村、西角野村、種子川山村、立川山村、東角野村、新須賀村 |
藩領 | 伊予西条藩 | 1町 42村 3浦 |
西条町[3]、下島山村、船屋村、下半田村[4]、中村、船木村、上泉川村、下泉川村、金子村、新居浜浦、庄内村、郷村、沢津村、宇高村、垣生村、松神子村、阿島村、大島浦[5]、氷見村、禎瑞村、新田村、坂元村、楢木村、西泉村、大保木山村、兎野山村、西田村、洲之内村、安知生村、古川村、中西村、中野村、千町山村、藤野石山村、荒川山村、喜多川村、明屋敷村、樋之口村、神拝村、朔日市村、永易村、流田村、福武村、明神木村、大町村、黒島浦[6] |
伊予小松藩 | 4村 | 上島山村、半田村、大生院村、萩生村 |
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.