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海原 幸夫(かいはら ゆきお、1919年3月26日 - 没年不詳)は、日本の録音技師である[1][2]。戦前の日活京都撮影所、および戦時統合による大映の成立後も引き続き戦後も大映京都撮影所で技師を務めた[2]。
かいはら ゆきお 海原 幸夫 | |||||
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本名 | 同 | ||||
生年月日 | 1919年3月26日 | ||||
没年月日 | 不詳年 | ||||
出生地 | 日本 京都府京都市 | ||||
職業 | 録音技師 | ||||
ジャンル | トーキー | ||||
活動期間 | 1935年 - 1976年 | ||||
主な作品 | |||||
『新平家物語 義仲をめぐる三人の女』 『残菊物語』 『夜の河』 | |||||
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1919年(大正8年)3月26日、京都府京都市に生まれる[1]。
京都市立商工専修学校(現在の京都市立堀川高等学校)を卒業し、1935年(昭和10年)、日活京都撮影所に入社する[1]。録音技師として記録に残るもっとも古い作品は、1937年(昭和12年)6月17日に公開された池田富保監督の『唐人お吉 黒船情話』であり、同作公開時に海原は満18歳であった[2]。同年は、剣戟スター俳優の阪東妻三郎が阪東妻三郎プロダクションを解散、映画監督のマキノ正博(のちのマキノ雅弘)がマキノトーキー製作所を解散し、それぞれ同撮影所に入社した年で、海原は同年末に公開された阪東主演・マキノ監督による正月映画『血煙高田の馬場』の録音技師に抜擢されている[2]。
1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、日活の製作部門である同撮影所は大映に統合されて、大映京都撮影所になるが、海原は引き続き同社に継続入社する[1][2]。
1951年(昭和26年)、1953年(昭和28年)の『キネマ旬報』の記事によれば、海原は当時、技術契約者として大映京都撮影所に所属していた[3]。当時の所長は川口松太郎(1951年)、のちに酒井箴(1953年)、監督契約者に伊藤大輔、加戸敏、吉村公三郎、安田公義、安達伸生、衣笠貞之助、溝口健二、新藤兼人、森一生、録音部の契約者には大谷巖、大角正夫、奥村雅弘、中村敏夫が在籍していた[3]。
1956年(昭和31年)、第11回毎日映画コンクール録音賞を受賞、対象作品は、『新平家物語 義仲をめぐる三人の女』(監督衣笠貞之助、1956年)、『残菊物語』(監督島耕二、1956年)、『夜の河』(監督吉村公三郎、1956年)である[4][5]。1970年代には同撮影所が関わった連続テレビドラマの録音を手がけている[6]。記録に残る最後の仕事は、1976年4月5日 - 同年9月27日の期間に放映された、勝プロダクション・フジテレビジョン製作による連続テレビドラマ『夫婦旅日記 さらば浪人』で、放送終了時点での海原は、満57歳であった[1][6]。
正確な時期は不明であるが、2007年(平成19年)6月に発行された『日本の映画人』によれば、同書掲載時点ですでに死去しているとされる[1]。
すべてクレジットは「録音」である[2][7][8]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[9]
すべて製作は「日活京都撮影所」、配給は「日活」である[2]。
特筆以外はすべて製作は「大映京都撮影所」、配給は「大映」である[2]。
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