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大谷 巌(おおたに いわお、1919年8月4日 - 2017年8月3日[1])は、日本の録音技師である。日本映画・テレビ録音協会会員[2]
1919年(大正8年)に大阪府で生まれる。 1935年(昭和10年)に日活京都撮影所に入社。 1941年(昭和16年)2月に第二次世界大戦の開戦による戦時統制で日活の製作部門、大都映画、新興キネマが合併して設立された大日本映画製作(のちの大映)に所属し、1943年(昭和18年)には、落合吉人監督の『風雪の春』で技師に昇進した[3]。戦争末期の1945年(昭和20年)には、白井戦太郎監督の遺作『龍の岬』の録音を手がけている[3]。以降、大映京都撮影所録音部で活動した[3]。
1950年(昭和25年)、黒澤明監督の『羅生門』を手がける[3]。このときのチーフ助手が林土太郎であった。翌1951年(昭和26年)、松竹京都撮影所から溝口健二が同撮影所に移籍、入社第1作『お遊さま』の録音を担当し[3]、以降、香港との合作の『楊貴妃』(1955年)と遺作の『赤線地帯』(1956年)以外、溝口の全作品を担当した[3]。
溝口健二の没後も、ヴェテランの斎藤寅次郎監督の『帰って来た幽霊』(1955年)、渡辺邦男監督の『日蓮と蒙古大襲来』(1958年)といった大作を手がけるほか、森一生、三隅研次らの作品を多く手がけた[3]。
1971年(昭和46年)の大映倒産まで在籍し、その後は勝新太郎の主宰する勝プロダクションや同撮影所出身の西岡善信の主宰する映像京都で録音技師をつづけた[3]。1977年(昭和52年)には、テレビ映画に進出した[4]。
2000年(平成12年)、80歳を迎える年に、85歳を迎える市川崑監督の『どら平太』の現場で録音技師を務めた[3]。晩年も、2009年(平成21年)8月に京都の映画館に通っていることがスタッフのブログに書かれていた[5]。大映京都撮影所時代の後輩で日活撮影所に移籍した紅谷愃一が代表理事を務める録音技師の職能団体「日本映画・テレビ録音協会」の会員であった[2]。
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