法住寺 (京都市)
京都市東山区にある仏教寺院 ウィキペディアから
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法住寺(ほうじゅうじ)は、京都市東山区三十三間堂廻り町にある天台宗の寺院。本尊は不動明王。後白河法皇ゆかりの寺である。
法住寺 | |
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竜宮門 | |
所在地 | 京都府京都市東山区三十三間堂廻り町655 |
位置 | 北緯34度59分15.45秒 東経135度46分21.83秒 |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 不動明王 |
創建年 | 永延2年(988年) |
開基 | 藤原為光 |
公式サイト | 後白河法皇御所聖跡 天台宗 法住寺 |
法人番号 | 4130005001919 |
平安時代中期に藤原為光によって創設され、その後院政期にはこの寺を中心に後白河法皇の御所「法住寺殿」がいとなまれた。法住寺殿が木曾義仲によって焼き討ちされ、数年を経て後白河法皇も崩御すると、法住寺は後白河法皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続、明治時代に御陵と寺が分離され現在にいたる。
身代り不動明王像は、平安期の作風とされる。この不動像は寺伝では円仁(慈覚大師)が造立したといわれ、後白河法皇の信仰も篤かった。義仲の放火の際には法皇の身代りとなったと伝えられており、現在も毎年11月15日には不動会(ふどうえ)が営まれる。
永延2年(988年)、太政大臣藤原為光が法住寺の落慶法要をいとなんだことが『日本紀略』『扶桑略記』などにみえる。寺域の釈迦堂には本尊金色丈六釈迦如来、薬師如来、観音菩薩、延命菩薩、如意輪観音、法華三昧堂には普賢菩薩、常行三昧堂には阿弥陀世尊が安置され、円融法皇を迎えて豪華な法要がいとなまれた。為光は寛和元年(985年)6月に妻を、次いで7月には花山天皇の女御であった娘藤原忯子を失っており(忯子が亡くなったことで寛和の変が起きた)、その菩提を弔う目的でこの寺を創建したという。為光は現世の栄達を捨て、ここで念仏三昧の生活をおくった。正暦3年(992年)、為光の死にあたっては「封戸100戸」が寺に寄進された。為光死後、しばらくの間は法住寺は子孫によって護られていたが、長元5年(1032年)、九条邸から燃えひろがった火災によって焼失。このあと約120年間、大規模な再建などの記録は見られない。
保元3年(1158年)、後白河天皇は譲位して上皇となり、為光が建立した法住寺を中心とした地域に後白河上皇の院御所が建築され始めた。これが法住寺殿である。永暦元年(1160年)には延暦寺の鎮守社である日吉社を勧請して新日吉社を、上皇が信仰している熊野三山から熊野権現を勧請して新熊野社が法住寺殿の域内に建立された。永暦2年(1161年)に工事は完成し、上皇は法住寺殿に居を移して院政を行った。
法住寺殿の敷地は十余町、平家を後ろ盾にした上皇の権威で、周囲の建物は取り壊され、広大な敷地に北殿上御所、北殿下御所、南殿の三御所が作られた。狭義の法住寺殿はこの南殿をいう。南殿には上皇の住まいとして藤原信頼邸が移築され、東小御堂、千手堂などが立ち並び、広大な池もあった。長寛元年(1163年)には、蓮華王院(三十三間堂)が平清盛の寄進で南殿の北側に造立されている。仁安2年(1167年)には手狭だった南殿の御所が新たに建築され、さらに新御堂や不動堂も建立された。
後白河上皇は嘉応元年(1169年)に園城寺の長吏覚忠を呼んで出家して法皇となり、後に鴨川の東・綾小路の地に比叡山にあった妙法院を移転させて法住寺と新日吉社をその末寺とし、管理下に置かせ、妙法院を門跡寺院(綾小路門跡)とした。安元2年(1176年)、法皇の女御・建春門院(平滋子)が亡くなると、女御の御陵として法華堂が建てられた。
法皇と平家の栄華を象徴する法住寺殿ではあったが、寿永2年(1183年)、木曾義仲の軍勢によって南殿に火がかけられ(法住寺合戦)、法皇は北の門から新日吉社へむけ輿にのって逃亡、以後法皇は六条西洞院の長講堂に移りそこで生涯をおえた。建久3年(1192年)、法皇の崩御により、焼失した法住寺殿の敷地にあらたに法華堂がつくられ、法皇の御陵と定められた。この法華堂は建春門院の法華堂の南側にあたり、蓮華王院(三十三間堂)に対面して二堂が並立していたと推定されている。建春門院の法華堂は14世紀には破損がひどかったという記録があり(『花園天皇宸記』)、現在は、法皇の法華堂のみが残っている[1]。
その後、法住寺は後白河法皇の御陵をまもる寺として長く存続した。前述のごとく鎌倉時代までは建春門院を祀る法華堂、後白河法皇を祀る法華堂が、蓮華王院の東に並び立っていた。時の権力の変遷に伴って法住寺はいくつかの近隣寺院と関係を持った。とくに妙法院との関係は依然として密接であった。
豊臣秀吉の時代には、すぐ北にあった方広寺(京の大仏)が法住寺や蓮華王院の寺域を包摂するということもあったが、江戸幕府によって妙法院が重要視されるようになると、妙法院と一体視され、法住寺は妙法院門跡の「院家」として待遇された。妙法院の日記である『妙法院日次記』には、江戸時代を通じて、法住寺の名前があがっている。また現在は法住寺と分離されている隣接の後白河天皇陵内に「法住寺」と書かれた江戸時代の手水鉢が残されており、後白河天皇の陵を継続してまもってきたことが知られる。なお妙法院に住持した歴代法親王(門跡)の墓所も法住寺境内にあった。
また元禄年間(1688年 - 1704年)には大石内蔵助が当寺に参拝したと伝えられ、その縁から四十七士木像も安置されている。幕末に法住寺陵が後白河天皇の御陵ではないと唱えた学者が現れた時、当時の住持が御陵の真下を掘ったところ記録どおりに天皇の遺骨を納めた石櫃が見つかったといわれている。
明治に入ると、後白河天皇陵と妙法院門跡法親王の墓所が寺域から分離され、宮内省の管轄におかれた。明治の初め、東山渋谷にあった佛光寺から親鸞ゆかりとされる阿弥陀如来像や、親鸞そば喰いの像が移されている。法住寺は明治期から昭和にかけて「大興徳院」と寺名が改称されたが1955年(昭和30年)、法住寺に復名した。明治時代初頭に後白河天皇陵をまもるという役割は形式上は終わったが、陵に置かれている後白河法皇像の模作を1991年(平成3年)に造立し安置するなど、現在でも密接な関係を持っている。また法皇が愛した今様の歌合せも復元して行われている。
また、当寺は漫画『サザエさん』の作者・長谷川町子の菩提寺でもあり[2]、法住寺正門の提灯には「サザエさん長谷川町子菩提寺」の札が掲げられている。長谷川が生前に『平家物語』ゆかりの地を探訪していた際に「静かでいいところ」として当寺の環境を気に入り、住職と親交を持ったことが縁となって没後に遺骨の一部が本寺へ分骨された[3]。境内には長谷川直筆のサザエ・ワカメ・タラちゃんを描いた色紙が展示されている。
法住寺と隣接し、法華堂が建てられている。宮内庁月輪陵墓監区事務所の管轄。
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