歩兵第70連隊(ほへいだい70れんたい、歩兵第七十聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ(國四九〇五、中部第六十八部隊、満洲第六三四部隊)。
盃ヶ岳、多紀連山など裏山を演習場代わりにした苛烈な訓練で、「丹波の鬼」と称された[1]。
- 1927年(昭和2年)
- 2月7日:大正天皇大喪の礼に軍旗を捧持し代表者が参列。
- 11月15~18日:大阪府・奈良県下で行われた大演習に参加。
- 1928年(昭和3年)12月2日:昭和天皇の御大礼観兵式に軍旗を捧持し代表隊が参列。
- 1929年(昭和4年)6月5日:第4師団の御親閲分列式に参列。
- 1933年(昭和8年)9月:第9中隊156名が天津に駐箚(昭和9年9月帰還)。
- 1934年(昭和9年)9月:第1中隊152名が天津に駐箚(昭和11年9月帰還)。
- 1935年(昭和10年)9月:第7中隊152名が天津に駐箚(昭和11年9月帰還)。
- 1937年(昭和12年)
- 1939年(昭和14年)
- :刀翎・土城子・永発屯を警備。
- 7月28日:佳木斯市樺川県追分に移駐。
- 8月23日:ノモンハン事件の増援として応急派兵の下命。
- 9月4日 :ハンダカヤにてソ連軍と対峙、陣地構築を行う。
- 9月13日:停戦協定成立。
- 10月5日:長発屯に帰還。
- 1940年(昭和15年)
- 1941年(昭和16年)
- 7月16日:特臨編第三號(第百二次動員)により第25師団に臨時動員下令(関東軍特種演習第二次動員)。
- 7月28日:動員着手。企図を秘匿しつつ逐次応急派兵の態勢に移行するとともに、国境付近の要所確保の準備を開始。
- 7月30~8月8日:編成完結。
- 8月9日:対ソ連開戦は中止。『帝國陸軍作戰要綱』に基づき情勢の推移を見つつ、引き続き国境防衛の強化・訓練。
- 1943年(昭和18年)12月:「ウ號演習」[注釈 5]を実施。
- 1945年(昭和20年)
- 1940年(昭和15年)10月:歩兵第70連隊補充隊は歩兵第168連隊に改編。[注釈 8]
- 1944年(昭和19年)
- 1月6日:歩兵第168連隊は朝鮮に移駐[注釈 9]。
- 2月5日:航空通信の教育部隊である第31航空通信連隊が三重県斎宮村から移駐。
- 1945年(昭和20年)
- 8月16日:停戦。
- 8月28日:『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により兵営は内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれる。
- 9月 :米軍進駐を開始し兵営は接収されるが、軍需品の処理が終了するとともに大蔵省に返還(接収時期は不明)。
- 1946年(昭和21年)年
- 1948年(昭和23年)3月:兵庫県立医科大学予科は神戸移転。
- 1949年(昭和24年)4月:同 跡地に兵庫県立農科大学が設立。
- 1969年(昭和44年)3月:同大は神戸大学に併合され廃止。
- 1970年(昭和45年):跡地に篠山鋳鉄(昭和47年、三井ミーハナイトメタル篠山製造部)が設立。
- 2006年(平成18年)1月23日:兵営南東側に篠山警察署が移転。
さらに見る 代, 氏名 ...
歴代の連隊長
(特記ない限り陸軍大佐)
代 | 氏名 | 在任期間 | 備考 |
1 | 飯田左門 | 1907.10.22 - 1910.5.14 | |
2 | 板橋次郎 | 1910.5.14 - 1914.8.10 | |
3 | 細野辰雄 | 1914.8.10 - 1917.8.6 | |
4 | 元田亨吉 | 1917.8.6 - | |
5 | 石関春 | 1921.4.1 - 1923.8.6[7] | |
6 | 中谷勘作 | 1923.8.6 - | |
7 | 加藤惣次郎 | 1926.3.2 - | |
8 | 藤野嘉市 | 1928.8.10 - | |
9 | 土屋喜之助 | 1930.8.1 - | |
10 | 上森猛省 | 1932.8.8 - | |
11 | 中川広 | 1934.8.1 - | |
12 | 越生虎之助 | 1936.8.1 - | |
13 | 石川浩三郎 | 1937.12.8 - | |
14 | 岩部重雄 | 1939.3.9 - | |
15 | 川島正 | 1942.2.9 - | |
末 | 石川粂吉 | 1944.8.25 - | |
閉じる
1905年(明治38年)10月20日:兵庫県多氣郡篠山町(現・篠山市)出身の森本荘三郎衆議院議員は町会議員を召集し、篠山への新設聯隊誘致を決定し、23日、発起人・森本氏本人、篠山町・多気郡の献納額を定め、25日、聯隊誘致の願書を陸軍省に提出し誘致運動を開始した。
多氣郡住民の土地献納(22町歩2反4歩・・・練兵場14.4町、作業場8.5反、射撃場6.8町、墓地4.1反、交通路4.3畝、憲兵分隊1.5反)が相次ぎ、また陸軍省買収用地(12.8町、兵営、衛戍病院、聯隊區司令部)も地価を大幅に下回る等地域住民の協力の下、円滑に用地習得が進んだ。
篠山町への新設連隊誘致には篠山町出身の森本荘三郎が中心となり、本郷房太郎少将、本庄繁大尉(各肩書は当時)の尽力があった。 建物・大林組、練兵場・松村組、射撃場・關谷組が工事請負い。
戦力の抽出。
在満師団は駐屯体制に移行。一部復員。編成縮小。
第25師団は古豪3コ聯隊(歩14・歩40・歩70)を隷下に持ち、装備・士気・団結も高く、敵上陸部隊破砕を目指し訓練に邁進したが、その真価を発揮する事なく停戦を迎えた。 奉焼に先立ち聯隊長・石川粂吉大佐、聯隊旗手・中嶋憲一郎少尉、聯隊副官2名が前夜に旗頭・旗頭金具・軍旗の一部を取り外し保管した。
軍旗の分身は石川大佐、中嶋中尉が保管。
昭和31年6月、石川元大佐が、昭和60年5月、中嶋元中尉が遺族会を通じて篠山町に寄贈、忠霊堂前の遺芳会館内で保存された。
- 『日本陸軍連隊総覧 歩兵編(別冊歴史読本)』新人物往来社、1990年。
- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 『官報』