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支那駐屯軍(しなちゅうとんぐん、旧字体:支那󠄁駐󠄁屯軍)は、大日本帝国陸軍の軍の一つであり、中華民国成立以前は清国駐屯軍(しんこくちゅうとんぐん)であった。天津にあったことから天津軍とも通称される。
1900年(明治33年)5月、義和団の乱が勃発し、日本政府は清国臨時派遣隊を天津に送った。その後の事態の悪化により、6月に第5師団を中心とした部隊を増派し、欧米諸国との連合軍を構成し、8月に事変は沈静化した。同年10月、第5師団の指揮下にあった混成一個旅団により清国駐屯隊を編成し、他の部隊は順次復員した。1901年(明治34年)5月から清国駐屯隊も順次復員した。
そして、同年5月31日には北京議定書に基づき新たに清国駐屯軍が編成され、日本の公使館、領事館、在留邦人の保護を担うこととなった。その後、清国の滅亡に伴い1912年(明治45年)4月26日に清国駐屯軍を支那駐屯軍と改称した。
1936年(昭和11年)4月18日、北支情勢の悪化に備え支那駐屯歩兵旅団を新設し、それまで駐屯軍全体で歩兵10個中隊程度の規模であったのを混成旅団規模に強化した。支那駐屯軍司令官は、同年5月1日から親補職になった[1]。
強化した翌年の、1937年(昭和12年)7月7日に盧溝橋事件が発生し日中戦争(支那事変)が勃発した。盧溝橋事件発生後、まず朝鮮の第20師団と関東軍の独立混成第1・第11旅団を隷下に入れ、さらに7月27日に内地の第5・第6・第10師団も隷下に入れた。その後8月31日には第1軍に改編され、支那駐屯軍は廃止された。廃止に当たり直属部隊は支那駐屯混成旅団に改編された[2]
盧溝橋事件で戦線拡大を唱える関東軍の対中強硬姿勢とは正反対に、支那駐屯軍は積極的に中国側と停戦と和平を行っているなど対中穏健姿勢である。
1937年(昭和12年)当時
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