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横須賀線電車爆破事件(よこすかせんでんしゃばくはじけん)は、1968年(昭和43年)に日本国有鉄道(現在の東日本旅客鉄道(JR東日本)エリア)横須賀線で発生した爆弾事件。
最高裁判所判例 | |
---|---|
事件名 | 船車覆没致死等被告事件 |
事件番号 | 昭和45(あ)1919 |
1971年4月22日 | |
判例集 | 刑集 第25巻3号530頁 |
裁判要旨 | |
| |
第一小法廷 | |
裁判長 | 藤林益三 |
陪席裁判官 | 岩田誠 大隅健一郎 下田武三 |
意見 | |
多数意見 | 全員一致 |
意見 | なし |
反対意見 | なし |
参照法条 | |
刑法126条1項 |
警察庁広域重要指定事件107号。
1968年(昭和43年)6月16日15時頃、横須賀線の横須賀発東京行き上り列車(113系電車)が、 北鎌倉駅 - 大船駅間を走行中、大船駅手前に差し掛かった所で、前から6両目の網棚に置かれていた荷物が突然爆発した。この爆発で男性1人(32歳)が死亡し、14名の重軽傷者を出す惨事となった。
なお、当時は1967年6月18日の山陽電鉄爆破事件などの列車に対する爆弾事件が続発しており、世間が騒然としていた。当日は山陽電鉄爆破事件と同じく父の日でもあった。
警察庁広域重要指定事件としては、単一の事件で広域指定された唯一の事例である。
犯人は、山形県出身で当時25歳の男。後に純多摩良樹(すみたま・よしき)というペンネームで、歌人として活動している(以後は純多摩で記述)。
爆発物に使用された火薬は猟用散弾の発射薬として市販されていた無煙火薬と判明。起爆用の乾電池ホルダーが、主に受験勉強用に販売されていたクラウン社製のテープレコーダーのものであり、遺留品の検査マークから1000台以下しか出荷されていないことが判明。さらに爆発物を包んでいた新聞紙が毎日新聞東京多摩版であり、活字の印刷ズレから八王子市・立川市・日野市方面に配られるものと判明[注 1]。また、爆発物には名古屋市の土産である「鯱最中」の箱が使用されていた。
それらの証拠から、日野市に在住、猟銃免許によって散弾銃を所持しており、毎日新聞を購読していたインテリ大工の純多摩が被疑者として浮かび上がった。さらに事件前年に隣家の夫婦が新婚旅行の土産として名古屋で買った「鯱最中」を純多摩へ渡していたことを突き止めた。
W(犯行当時25歳)は、殺人罪・爆発物使用罪・船車覆没致死罪で横浜地方裁判所に起訴された。
1968年12月25日、横浜地方裁判所(野瀬高生裁判長)にて初公判が行われ、Wは起訴状を認めた。
1969年3月3日、Wの求刑公判にて検察側は死刑を求刑した。
1969年3月20日、横浜地方裁判所(野瀬高生裁判長)は、電車破壊致死罪(刑法126条3項)、殺人罪(刑法199条)、殺人未遂罪(刑法203条、199条)、傷害罪(刑法204条)、爆発物取締罰則違反(同罰則1条)の成立を認め、Wに求刑通り死刑判決を言い渡した(起訴されたもののうち船車覆没致死罪は、判決では、電車破壊致死罪とされた)[2]。各被害者との関係では、被害者1名につき殺人罪、被害者12名につき殺人未遂罪、被害者2名につき傷害罪が適用された。Wは殺意の存在を否認していたが、裁判所は、Wが事前に3回の爆破実験をして、爆発物の威力を十分に知っていたことから、少なくとも爆発物に近い座席にいた13名の被害者に対しては未必的な殺意があると認定した[3]。
1969年12月4日、東京高等裁判所(樋口勝裁判長)にて控訴審初公判が行われた。この公判にてWは精神鑑定が行われた。
1971年4月22日、最高裁判所(藤林益三裁判長)はWの上告を棄却し、Wの死刑が確定した[5]。最高裁判所は、刑法126条1項にいう「破壊」の意義について、「汽車または電車の実質を害してその交通機関としての機能の全部または一部を失わせる程度の損壊をいう」と判示した上で、Wの行為は「破壊」に当たるとした[6]。
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