東京放送劇団

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東京放送劇団(とうきょうほうそうげきだん)は、1940年代から1990年まで存在した日本放送協会(NHK)の元放送用専属劇団である。

歴史

  • 1941年 - JOAKラジオドラマ専門のラジオ俳優を養成する2年制の養成所(東京中央放送局専属劇団俳優養成所)の研究生を公募する。応募総数は546名。
  • 1943年5月 - 養成期間を終えた第1期生31名(男性10名、女性21名)を採用する。
  • 1946年2月 - 第2期生を採用する。
  • 1948年9月 - 第3期生を採用する。
  • 1952年4月 - 第4期生を採用する。
  • 1953年2月 - 東京放送劇団の団員は41名、テレビ演劇研究生は15名を数える。東京以外の劇団には96名(大阪:24名、名古屋:18名、広島:14名、福岡:14名、仙台:14名、札幌:12名)が在籍する。
  • 1954年4月 - 第5期生を採用する。テレビからの需要を満たせるように加味し養成する。
  • 1959年6月 - 仕事の性質上から芸術家としての待遇を取って、団員との専属の契約を見直し、優先契約制へと移行する[1]
  • 1990年3月31日 - NHK経営合理化のために19名の団員の年間契約を解除、解散した。当時の平均年齢は60.4歳。

劇団体勢変更

1959年4月、テレビの仕事を得られない劇団員から不満の声が上がる[2]。この結果、専属制度が見直された[2]。同年4月21日加藤道子山内雅人文化放送の『現代劇場』で放送された『役の行者』に出演[1]。東京放送劇団員の民放初出演となるが、これは加藤道子の父親である加藤精一が出演していることと、プロデューサーが山内雅人と大学時代のサークル仲間であるという事情が考慮され許可が下りた[1]黒柳徹子里見京子などは民放への出演許可が下りず、他の劇団員も民放の番組に出演すればNHKの番組には起用されなくなると言われていることなどから、専属制の廃止は表面上だけであったと雑誌『芸能』では評している[1]

指導者(客員を含む)

出身者

その他

NHKは東京放送劇団以外にも適宜、各放送局に専属放送劇団を設置していた。ほとんどが東京放送劇団と同時に解散。

  • 札幌放送劇団
  • 青森放送劇団
  • 盛岡放送劇団
  • 仙台放送劇団
  • 秋田放送劇団
  • 鶴岡放送劇団
  • 福島放送劇団
  • 金沢放送劇団
  • 浜松放送劇団
  • 名古屋放送劇団
  • 大阪放送劇団
  • 京都放送劇団
  • 広島放送劇団
  • 岡山放送劇団
  • 松山放送劇団
  • 福岡放送劇団

NHKはドラマ制作にあたって、音響効果を担当する東京放送効果団も設立していた。東京放送管弦楽団とともに1990年3月末をもって解散。

解散後その多くは81プロデュースに移籍しており、それらもNHKのアニメ・海外ドラマの声優や、ドキュメンタリーのナレーターなどに引き続き携わっている。

参考文献

  • 日本放送史 上・下・別巻 日本放送協会、1965年
  • 「ラジオ名作数々残し 来春NHK放送劇団が"終幕"」『中日新聞』1989年11月5日付
  • 西澤實『ラジオドラマの黄金時代』河出書房新社、2002年

脚注

関連項目

外部リンク

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