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東京っ子NIGHTお遊びジョーズ(とうきょうっこナイトおあそびジョーズ)は文化放送のラジオ番組。1987年4月6日から1989年10月6日まで放送。
注意:スポンサーを記述しないでください。(この記事の番組は、一社協賛番組でもない、冠スポンサー番組でもない、複数社協賛番組です。このような記述は削除されます。) |
『東京っ子NIGHT - 』時代は東京都港区海岸3丁目のオンワード樫山 芝浦 第2ビル 7階にあった『TOKYO BAY STUDIO』から放送していた。月曜日 - 木曜日パーソナリティの関秀章は当時、毎週 月曜日に『ファンキートマト』(テレビ神奈川、19:00 - 21:00)の生放送に出演。横浜から港区海岸のスタジオまで、30分で移動しなければならなかったため、時間内に入れるかどうかが話題となっていた。1987年5月5日の放送では間に合わず、スタジオに予め待機していた金曜日パーソナリティの太田英明が途中まで進行して、関がスタジオに入って来た所から、その日は二人で最後まで進行した[1]。
『東京っ子NIGHT - 』時代のオープニングテーマ曲は、スウィング・アウト・シスターの曲『ブレイクアウト』をアレンジして製作したオリジナルヴァージョンの曲[2]。
当番組の放送開始前にマスコミ関係者らを招待して、番組スタート記念パーティーを開催。番組宣伝活動を大々的に行った[3]が、当番組の聴取率は前番組『新てるてるワイド 吉田照美のふッかいあな』の末期のそれを下回った[3]。『 - ふッかいあな』のパーソナリティを務めていた吉田照美が担当した平日帯 昼ワイド番組『吉田照美のやる気MANMAN!』の放送中、当番組の状況を見るに見かねて「文化の夜、ガタガタじゃねえかよ!」「俺を夜に戻せ」などと発言した[4]。
1988年4月のリニューアル後はタイトルから「東京っ子NIGHT」が取れて『(ちびっこギャングの - 、RATS FAMILY 桑野信義の - )お遊びジョーズ』となり、TOKYO BAY STUDIOを離れ、同局 四谷の本社スタジオ(当時)からの生放送に変更となった。
文化放送では1985年(昭和60年)から、平日夜に他局と同様のスタイルの野球中継『文化放送ライオンズナイター』を投入した。しかし、当時はプロ野球パシフィック・リーグの試合時間が試合開始後3時間を超えて新たなイニングに入らないというルールだったため、18時開始の西武ライオンズ球場での西武主催ゲームを中継することを前提に、ライオンズナイターは21:30までとして延長なしと設定された。このため、1987年(昭和62年)シーズンは前番組の『ふッかいあな』と同様、当番組はナイターシーズン中でも定時スタートができた。
1988年(昭和63年)シーズンは、パ・リーグの試合時間制限が前年よりも1時間長い延長12回かつ試合開始後4時間を超えて新たなイニングに入らないとされたが、文化放送は引き続き21:30での放送打ち切りを継続した。しかし、パ・リーグ優勝決定試合となった10月19日のロッテオリオンズ対近鉄バファローズのダブルヘッダーはリスナーの抗議が殺到したため第1試合途中で緊急特番放送が決まり、第2試合終了まで放送して当番組がその分短縮されるという、当時の文化放送では極めて異例の対応がなされた。
1989年(平成元年)シーズンは、前年10月31日に開局したNACK5が筆頭株主になったライオンズの親会社西武鉄道の意向を受けて、国内FM局初の本格的なスポーツ中継に取り組むことになった。ライオンズナイターは21:30での打ち切りを維持したものの、それ以降試合が続く場合はNACK5で試合終了までリレー放送する形とした。
文化放送での平日ナイター中継延長が実現するのは、当番組の後継となった『ラジオバカナリヤ』まで待つことになる。試合終了までの完全中継はさらに遅く、1992年(平成4年)の『サスケの夜はこんびんば!』まで実現しなかった。
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