日本を守る国民会議

かつての日本の政治団体 ウィキペディアから

日本を守る国民会議(にほんをまもるこくみんかいぎ)は、過去に存在した改憲を目標とした日本の保守団体[1]1981年昭和56年)10月27日に「元号法制化実現国民会議」を改組して発足した[2]日本会議の前身の一つ。

概要

要約
視点

1978年昭和53年)7月18日、元最高裁長官石田和外の呼びかけで、「元号法制化実現国民会議」が発足した。初代議長には石田が就いた。「日本を守る会[注釈 1]とともに元号法制化実現に向けた運動を行った。

1979年(昭和54年)6月12日、元号法は公布施行された。「元号法制化実現国民会議」は目的を果たして解散の機運があったが、当時、事務総長を「日本を守る会」と兼任していた明治神宮権宮司副島廣之は「解散してしまうのはまことに惜しい」と述べた[3]。新たな目的を「草の根からの憲法改正運動」に定め[2][4]全国キャラバンを実施[* 1]1981年3月から各都道府県で「日本を守る都道府県民会議」結成が相次いだ[* 1]。これらの組織の事務所と連絡先のほとんどは、生長の家または神社本庁の地方支部に置かれた[4]。各都道府県の結成式には黛敏郎が飛び回り、壇上から「どうして広島に原子爆弾が落とされたのか? それは日本が原子爆弾を持っていなかったからだ」と述べ、現憲法を激しい口調で批判した[4]

1981年10月27日、「元号法制化実現国民会議」を改組する形で、前述の各都道府県民会議の中央組織である「日本を守る国民会議」の結成式がホテルニューオータニで開かれた[2][4][5]。発足当時の議長は加瀬俊一、運営委員長は黛敏郎、事務総長は副島廣之。呼びかけ人は以下の23人が名を連ねた[2]

井深大(ソニー名誉会長)・宇野精一東京大学名誉教授)・江藤淳東京工業大学教授)・大石義雄京都大学名誉教授)・春日野清隆日本相撲協会理事長)・加瀬俊一(元国連大使)・金子日威池上本門寺貫主)・木内信胤(世界経済調査会理事長)・斎藤忠ジャパンタイムズ論説顧問)・桜田武日本経営者連盟名誉会長)・鹿内信隆産業経済新聞社長)・篠田康雄神社本庁総長)・清水幾太郎(元学習院大学教授)・副島廣之明治神宮権宮司)・高田好胤薬師寺管長)武見太郎日本医師会長)・永野重雄新日本製鐵会長)・葉上照澄比叡山延暦寺長﨟)・法眼晋作国際協力事業団顧問)・細川隆元(評論家)・升田幸三(棋士)・黛敏郎(作曲家)・武藤光朗早稲田大学客員教授)・村松嘉津(評論家)・村松剛筑波大学教授)・山岸信子(全日本婦人連盟元会長)

呼びかけ人の一人である篠田康雄は、「憲法、防衛、教育。これが国家の基本の三本柱だ」とその運動方針を述べた[3]。新会議には政財界、文化人旧日本軍関係者で構成される郷友会、神社本庁等が集まった[6]。論憲・改憲の立場であった[* 2]

1982年(昭和57年)6月26日、日本の大手新聞テレビのメディアが教科書検定の批判を一斉に報じ(第一次教科書問題)、会議内でも「教科書問題を考える懇談会」を開催[* 1]、懇談会を継承した歴史教科書編纂委員会が編じた「新編日本史」を1986年(昭和61年)に発行すると、以降は中国韓国から批判が相次ぐようになった。

元号法を根拠に1989年(昭和64年)1月7日の昭和天皇崩御により、新元号「平成」が政令で公布。1991年(平成3年)6月、黛が第2代議長に就任した[* 1]1997年(平成5年)、結成10周年の記念式典を挙行、「新憲法の大綱」を発表。1993年(平成5年)8月、細川護煕首相の「侵略戦争」発言でパリ不戦条約に基づく日本の賠償責任問題が噴出、「会議」は細川に発言の撤回を要求している。

1997年(平成9年)3月、「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」は、両団体の発展的統合をそれぞれの役員会で決議した[* 1]。新組織「日本会議」の会長には黛敏郎が内定していたが、黛は4月10日に病没した。5月30日、日本会議の設立大会がホテルニューオータニで開催された[7][8]

「国民会議」が出していた機関紙『日本の息吹』は、引き続き日本会議で発行されている。

主な役員

※統合直前の1995年11月当時

議長

顧問

代表委員

事務総長

脚注

参考文献

関連項目

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