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日本とバチカンの関係(にほんとバチカンのかんけい、ラテン語: Sancta Sedes et Iaponia necessitudo, イタリア語: Il rapporto tra la Santa Sede e il Giappone, 英語: relations between the Holy See and Japan)では日本とバチカンの二国間関係をのべる。
在バチカン日本国大使館はイタリアのローマに所在する。一方、駐日本国ローマ法王庁大使館(駐日バチカン大使館に相当)は東京都千代田区に所在する。
二国間の関係は1549年に宣教師のフランシスコ・ザビエルが薩摩半島の坊津に上陸したことに始まる。その後、数十年はカトリックが日本に布教される。1584年には天正遣欧少年使節がローマに派遣され、教皇グレゴリウス13世に謁見した。しかし、17世紀初頭に江戸幕府によりキリスト教が禁止され、1873年に明治天皇がキリスト教を解禁するまで禁圧された。
公式な関係は1919年に日本がバチカンから使節(apostolic delegate)を受け入れたことに始まる。1942年にアジアの国家としては初めて日本とバチカンは正式に国交を開いた。その後1958年にバチカンが日本の代表を大使に格上げした。
1549年8月に薩摩半島の坊津にフランシスコ・ザビエルがカトリックの布教を目的として来航し、700人ほどの日本人をカトリックに改宗した。その中には、日本人として初めてヨーロッパを訪れた鹿児島のベルナルドも含まれていた。1580年には大名の大友宗麟や有馬晴信をはじめとして日本に約10万人のキリスト教徒がいた。1579年から1582年の間に日本を訪れていたイエズス会員のアレッサンドロ・ヴァリニャーノにより発案された天正遣欧少年使節団が1582年に送られ、スペイン国王のフェリペ2世の歓待や教皇グレゴリウス13世の謁見を受け、グレゴリウス13世の次の教皇のシクストゥス5世の戴冠式に出席した。これは日本からヨーロッパに送られた最初の使節であった[1][2]。
しかし、17世紀に入るとキリスト教が禁圧され、禁止政策はおよそ2世紀半もの間続けられた。この間に多くのキリスト教徒が日本で処刑された。
1873年に明治維新の一環としてキリスト教の禁止が撤廃されると宣教師が日本に自由に出入りできるようになった[1] 。バチカンは隠れキリシタンによる禁教下での布教活動を認識しており、処刑されたカトリック信者らを殉教者として列聖した。しかし、キリスト教解禁後に日本で宣教活動を行ったのは主にプロテスタントであり、1907年の日本のキリスト教徒14万人に対し、カトリック信者は6万人にとどまっていた[3]。
1906年に時の教皇ピウス10世はイエズス会に対し、日本へ宣教師を派遣して高等教育機関を設置することを要請し、これを受けて3人のイエズス会員が派遣され、彼らにより1913年には上智大学が開校された。
1905年には日露戦争下でカトリック教会が日本軍により保護されたことに対し、明治天皇に感謝の意を表するため、教皇はアメリカ人神父のウィリアム・ヘンリー・オコンネルを東京に派遣している[4]。
1919年にバチカンと日本との関係の改善を模索するため、教皇使節としてピエトロ・フマゾーニ・ビオンディが日本に送られている[5]。
1942年にアジアの国家としては初めて日本とバチカンは正式に国交を開いた[6]。この時、バチカン側はフランス臨時代理大使を務めた原田健を駐在公使として受け入れ、日本側も教皇使節パウロ・マレラを駐日公使として受け入れた[7][8]。この国交正常化には第二次世界大戦においてバチカンを日本と連合国の調停者にしようとする日本側の意図があり[1]、昭和天皇も元駐イタリア大使で宮内省御用掛の松田道一からの御進講でバチカンの役割について度々言及していた[9]。この時、130万人のカトリック信者をもつフィリピンをはじめ、日本の占領地には200万人ものカトリック信者がいた。このため、バチカンの対日政策が日本の行動を容認するものとみなしたアメリカやイギリスは非難している[10]。
一方でバチカンは日本の傀儡政権である汪兆銘政権や満洲国を承認しなかった。これは北京の教皇使節が汪兆銘政権の及ぶ領域内でも活動するという合意によるものであった[8]。また、満洲国にも教皇使節が派遣されている。1944年に原田は教皇ピウス12世へ日本が停戦を望んでいることを伝えたが、日本政府はこれを否認している[11][12]。
しかし、1945年になると原田公使はバチカン国務省の仲介でOSSの諜報員マーティン・キグリーと接触して終戦条件を提示され、東京の本省に報告している[9]。
1958年、日本政府は在日バチカン公使館を大使館に格上げした。 教皇のピウス12世は初代駐日バチカン特命全権大使として マクシミリエン・デ・フルステンブルクを日本に送っている[1]。
現代の日本とバチカンは文化協力を行うなど友好関係にある。要人訪問も何度か行われており、1981年教皇ヨハネ・パウロ2世が教皇としてはじめて日本を訪問した[13]。1993年には明仁天皇(当時)が、2014年に安倍晋三首相が、2016年に秋篠宮文仁親王がそれぞれバチカンを訪問している[14]。2019年11月には教皇フランシスコが日本を訪問している[15]。
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