憶・原町無線塔
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憶・原町無線塔(おく・はらまちむせんとう)は、福島県南相馬市原町区にある、高さ約20メートルの記念塔である。1982年(昭和57年)3月に老朽化のため解体された、高さ約200メートルの『原町無線塔』(はらまちむせんとう)の縮尺10分の1スケールのミニチュア・メモリアルタワーとして、1982年10月に建てられた。通称は、憶無線塔(おくむせんとう)。その他にも、原町無線塔の記念として塔頂部の滑車が、南相馬市博物館の前庭に設置されている。
この記事では、1921年に完成した当時の原町無線塔についても述べる。
1921年(大正10年)7月に現在の福島県南相馬市原町区高見町二丁目(北緯37度38分8.58秒 東経140度58分55.73秒)に完成した原町無線塔は、底面直径17.7メートル、突端直径1.18メートル、尖塔高約201メートル、鉄筋コンクリート製の電波塔で、1928年12月に依佐美送信所の鉄塔(250メートル)が完成するまでアジアで最も高い建築物であった。
設計・施工については、1921年11月10日発行の『震災予防調査会報告 第97号(甲)』に収録されている「原ノ町無線電信塔振動ノ験測」(大森房吉著)に詳しいので以下に述べる。なお、1フィート=0.3048メートル、1インチ=0.0254メートル、1尺=0.30303メートルで換算した。
当初は鉄塔になる予定だったが、第一次世界大戦の影響で鉄の値段が高騰したため、鉄筋コンクリート製に変更。 無線施設には201メートルの主柱の他に、60メートルの木製の副柱18本が主柱から400メートル離れた場所に設置され、傘型の空中線を構築していた。出力は450kW。1928年(昭和3年)には、木製の副柱に代わり、高さ200メートルの鉄製の副柱5本が主柱から500メートル離れた場所に設置され、出力も750kWに改善された。
1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生した際に、第一報を無線通信によってアメリカに打電し、これにより震災のニュースが世界中に伝わった[1]。関東大震災によって原町無線塔が注目されて以後、日本各地にラジオが普及していった。1958年(昭和33年)12月23日に開業した東京タワーが「テレビ時代」の到来の象徴であったのに対して、原町無線塔は「ラジオ時代」の到来の象徴であった。しかし場所を取らず高出力の短波時代の到来により終焉までのスピードは意外なまでに早かった。
1931年(昭和6年)に原町送信所は廃局。1960年(昭和35年)には放置されていた無線塔を活用しようとNHKラジオの電波中継局が設置されるが、活用されないまま1973年(昭和48年)頃から、原町無線塔のコンクリート壁の崩落のニュースが流れ、風化・劣化が進んで危険度が増し、保存か撤去かが非常に大きな問題になっていった。結局、1981年(昭和56年)6月から1982年(昭和57年)3月にかけて解体、撤去された。
原町無線塔の撤去後、当時の市民の感情として、在りし日の原町無線塔の勇姿を求める声が根強く、当時の原町市役所はその対応に迫られる状況となっていた。原町市役所および原町ライオンズクラブは市民の声を尊重し、各方面からの協力ならびに経済的支援を求め、同年10月に、縮尺10分の1スケールのミニチュア版、高さ約20メートルの憶・原町無線塔(通称:憶無線塔)を建設した。
かつての磐城無線電信局・原町送信所の跡地は現在は公園として整備され、また主塔である『原町無線塔』が立地していた場所には、2009年に『無線塔跡花時計』が造られた。同じ原町送信所跡の敷地内には「道の駅南相馬」もあり、人々の憩いの場になっている。なお、憶・原町無線塔自体は、かつて主塔のあった花時計の位置から東北東に約150メートルほどの距離の国道6号沿いに建っている。
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