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日本の医師、政治家 (1938-2024) ウィキペディアから
徳田 虎雄(とくだ とらお、1938年〈昭和13年〉2月17日 - 2024年〈令和6年〉7月10日)は、日本の医師、政治家。鹿児島県徳之島町名誉町民。鹿児島県天城町名誉町民。
医療法人徳洲会創立者及び理事長、衆議院議員(4期)、沖縄開発政務次官、第7代日本体操協会会長、自由連合代表、特定医療法人沖縄徳洲会理事長、社会医療法人木下会理事長、医療法人静仁会理事長、埼玉医療生活協同組合理事長、札幌医療生活協同組合理事長、公益財団法人徳洲会国際奨学財団理事長、などを務めた。
日本の病院王と呼ばれながら国内に大規模な医療機関・医療事業グループを次々と築いていき、衆議院議員としても政治に関わった。2002年頃に筋萎縮性側索硬化症 (ALS) を発症して政界から引退したが、病床から徳洲会グループ全般へ指示を続けた[1]。
兵庫県高砂市で生まれ、アメリカ占領時代の鹿児島県大島郡徳之島町出身[2][3]。
幼い末弟が緊急医療を受けられず急病死したことを契機に医師を志した[3][4]。大阪大学受験を目標として大阪へ単身移住し、鹿児島県立徳之島高等学校から大阪府立今宮高等学校へ転校して1学年下に編入した。実家の家計は苦しかったが、父親が先祖伝来の農地を切り売りで学資を捻出して仕送りしたという[5]。なお徳田の自叙伝『 生命だけは平等だ 』を高校生の時に読んだ山中伸弥(ノーベル生理学・医学賞受賞者)は、徳田の生き方や考え方に多大な感銘を受け、人を命を救う医師になることを決意したエピソードは有名である[6]。
2浪後、大阪大学医学部医学科[4]に合格。卒業後、大阪大学病院第二外科に入局した後、大阪府の公立病院に勤務医として勤めるが、1973年(昭和48年)自身が理想とする病院建設を志し、銀行から「病院が失敗したら自殺して、その生命保険金で全額返す。」と説得し大きな融資を得て[3][5]、自身初となる「徳田病院」を大阪府松原市に開院する。そして地域住民の評判を得て軌道に乗った徳田病院は、1975年(昭和50年)医療法人徳洲会を設立。
徳田虎雄の「24時間、常に救急患者を受け入れる態勢」 「患者からの金品は一切受け取ってはいけない」 「負担を強いる入院保証金の廃止」 「(当時は当たり前だった)全病室の冷暖房費など一切無料」 「生活格差による差額ベッドの廃止」 「入院治療費の猶予、また生活費の立替」[5][7]など徳洲会グループは、全ての患者が安心して入院治療が出来る病院を目指し、全国の病院で慣習化していた常識を打ち破る方針を次々と打ち出して、既得権益を保守したい日本の病院・医療関係者達に大きな動揺を与える。そして日本医師会やその後ろ盾となる各地の地方自治体と対峙しながらも、大規模な病院や医療機関、診療所を次々と開設していき、徳洲会グループは国内最大の病院・医療機関となっていく。
「人命救助のためなら、人殺し以外は何でもやる」[3]
徳洲会設立当初「生命だけは平等だ」と連日病院に泊まり込むなど強い信念で仕事に臨む一方、医療のためには手段を選んでいられないとして赤信号を守らないなど規範意識が薄く[3] 、部下の運転手が赤信号で停止するたびに缶で頭部を殴打するなど[3] 、グループ内ではワンマンな人物として知られたが、そこには徳田の医療に対する強い信念からくるものだと得心し「理解できる範囲で、最善を尽くそうと思って、ついていきましたね。」と部下は回顧する[8][9][10]。家庭でも常に日本の医療の先行きを考えるばかりで、家族団らんの時間さえ妻の話はくだらないとしてあまり聴かなかった[11]。
徳州会で全国へ病院を展開しつつ、医療制度の改革に政治改革が必要と認識して政治家を志す。1983年(昭和58年)と1986年(昭和61年)の衆議院総選挙に鹿児島県奄美群島選挙区から立候補し、保岡興治の前に落選[3]した。この選挙は選挙違反で逮捕者が続出するなど島を二分する激しい対決となり、「保徳戦争」と俗称された[3] 。
1990年(平成2年)衆議院総選挙に無所属で初当選し、自由連合を結成するが[3]保守系無所属議員の寄り集まりであった。
1993年(平成5年)の衆議院総選挙は、選挙直前に自民党へ入党して再選されるが、日本医師会の意向で3日[12]で追放された。
1994年(平成6年)に自由連合を政党化し、代表として活躍。村山改造内閣で与党入りして沖縄開発政務次官を務めた。1996年(平成8年)衆議院総選挙で落選したが、2000年(平成12年)衆議院総選挙で復活し、2003年(平成15年)の衆議院総選挙で再選された。
2002年(平成14年)4月1日に筋萎縮性側索硬化症 (ALS) の発病に気付いた。2004年(平成16年)2月ごろから病状が悪化して国会に出席できずに療養したが病名は公にしなかった。2005年(平成17年)8月8日の衆議院解散をうけ、体調回復が十分でないとして政界から引退すること発表した。
後継として2005年(平成17年)9月11日衆議院総選挙に次男の徳田毅が立候補して当選し、自由連合代表となり2006年(平成18年)11月2日に自民党入りを表明した。虎雄の現役時に比して自民党入党に反対意見は少なかった。自由連合の去就は再び虎雄の手に委ねられたが、毅は11月29日に自民党へ「入党願」提出後「地方議員はいるので、自由連合を今後どうするかは父の判断だ。しかし、参院選に候補者を立てるのは難しいのではないか」と語った。
11月29日に虎雄は日本ALS協会設立20周年記念式典に患者として出席し、闘病中であることを初めて公にした。協会から登壇を促されたが人工呼吸器を装着して発話不能のため、代読された文章で[13]「これからが人生の勝負です」と日本と世界に病院を設立する計画を明らかにした。
内閣総理大臣鳩山由紀夫は2010年(平成22年)4月28日に、普天間基地移設問題で有力な移設先候補である徳之島に影響力がある虎雄と面会し、毅の立会で協力を要請したが虎雄は拒否した。2010年夏に自由連合は、総務大臣に解散届を提出して解散した。
2012年(平成24年)は湘南鎌倉総合病院最上15階の特別室で治療を受けながら[14]、文字盤で意思疎通しながら徳洲会で最高決定権を掌握していた。2011年に青木理のインタビューで、「私はいつ死ぬか分からない状態です」徳洲会は「あと5年は私が体制を作る必要がある」と語る。
2012年(平成24年)10月下旬に徳之島町から名誉町民を贈られる。伊仙町政施行50周年記念式典に出席するため、9年ぶりに故郷の徳之島へ帰郷した。
2011年(平成23年)11月に、TPP反対集会に参加しなかったとして、18年間徳洲会に勤めた「徳之島病院」の事務局長へ即時解雇を言い渡している[15]。
これまでの日米経済交渉では、オレンジ、米、自動車、半導体などひとつひとつで厳しい交渉をしてきた日本が、貿易、金融、保険、知的財産、政府調達、医療、教育など全ての分野において、米国が定める経済ルールを全て押し付けられ、我が国は主権国家であるにもかかわらず、何一つ決めることが出来なくなり、果して次世代の子供たちは日本の国創りが出来なくなるということが本当にわかっておられるのでしょうか。 — 徳田毅オフィシャルブログ2012年 11月12日より
と綴る。
2012年12月に衆議院選挙で鹿児島2区に立候補して当選した徳田毅議員の陣営で、多数の職員に給与と日当を支払い運動員として派遣した疑いがあることを、2013年9月16日にNHKなどが報じた[17]。2013年に東京地方検察庁特捜部は、虎雄の娘2人を含む6名と虎雄の配偶者徳田秀子を逮捕した。虎雄も逮捕と起訴が相当だが、生命の危険があるため判断見送りを決定した[18]。
徳洲会事件のキーマンとなった徳田虎雄の秘書兼元運転手で、徳洲会グループの実務を統括する事務総長まで上り詰めた当時の事務総長が、徳田家に事務総長の職務を解かれ懲戒解雇されたことに発端する。また元事務総長は徳洲会グループの事務総長の任に就いてた時期に、 徳洲会グループの関連会社の銀行口座から無断で3千万円を引き出し着服していたとして[19]、業務上横領罪で刑事告発され逮捕された裁判で東京高裁は1、2審とも、この元事務総長に懲役3年、執行猶予4年の有罪判決を下している[20]。
これら事件の責任として2013年10月20日に、医療法人徳洲会、特定医療法人沖縄徳洲会、社会医療法人社団木下会、医療法人静仁会、埼玉医療生活協同組合、札幌医療生活協同組合、それぞれの理事長職を退くことを明らかにした[21][22]。11月3日付で株式会社徳洲会、徳洲会建物管理株式会社、インターナショナル・ホスピタル・サービス株式会社など6社の社長に就いた[23]。
鹿児島テレビが制作した『トラオの夢 病院王・徳田虎雄とその時代』が、2019年10月2日にフジテレビ第28回FNSドキュメンタリー大賞で放送され[24]、2019年4月で81歳の虎雄は、車椅子移乗が不能でベッドに横臥し、視線による意志疎通も困難であった[25]。
2024年7月10日夜に入院先の神奈川県内の病院で死去[26]した。86歳没。7月21日に徳之島町でお別れ会が執り行われ、地元住民など1,000人以上が参列した[27]。
子供は厳しくしつけ、帰宅時は子供たちに正座で迎えさせ、自らのことは「理事長」と呼ばせるなどし、四女と次男を除いて医師に育てた。筋萎縮性側索硬化症が悪化するまで、子供たちは父と距離をとっていた[29][30][10]。
議員時代に交流した石原慎太郎元東京都知事、亀井静香元建設大臣などと親しい[35][1]。徳洲会病院に勤務経験がある小児科医の阿部知子衆議院議員[1]も、選挙事務所へ徳洲会グループ職員を派遣するなど支援した[36]。
当落 | 選挙 | 執行日 | 年齢 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 定数 | 得票順位 /候補者数 | 政党内比例順位 /政党当選者数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
落 | 第37回衆議院議員総選挙 | 1983年12月18日 | 45 | 奄美群島選挙区 | 無所属 | 4万8538票 | 48.72% | 1 | 2/3 | / |
落 | 第38回衆議院議員総選挙 | 1986年 7月 6日 | 48 | 奄美群島選挙区 | 無所属 | 4万7424票 | 47.60% | 1 | 2/3 | / |
当 | 第39回衆議院議員総選挙 | 1990年 2月18日 | 52 | 奄美群島選挙区 | 無所属 | 4万9591票 | 50.36% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第40回衆議院議員総選挙 | 1993年 7月18日 | 55 | 旧鹿児島1区 | 無所属 | 7万7491票 | 15.23% | 4 | 3/9 | / |
落 | 第41回衆議院議員総選挙 | 1996年10月20日 | 58 | 鹿児島2区 | 自由連合 | 8万4448票 | 46.26% | 1 | 2/3 | / |
当 | 第42回衆議院議員総選挙 | 2000年 6月25日 | 62 | 鹿児島2区 | 自由連合 | 10万2233票 | 50.33% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第43回衆議院議員総選挙 | 2003年11月 9日 | 65 | 鹿児島2区 | 自由連合 | 9万7423票 | 49.13% | 1 | 1/3 | / |
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