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大阪に生まれる。京都大学文学部英文科卒。1952年(昭和27年)、京都大学在学中に毎日新聞社に入社(正式採用は翌年の卒論提出後)。1955年(昭和30年)10月よりフルブライト奨学生としてアメリカのシラキュース大学に留学。社会部記者、バンコク特派員、編集次長、編集委員などを歴任した。横浜市港南区在住。
海外特派員としてイスラエル・中近東、ベトナム戦争などを取材した[2]、定年を前に、1985年(昭和60年)学芸部編集委員をもって退社。
『サンデー毎日』の記者時代の1970年(昭和45年)11月25日の三島事件の当日、交流のあった三島由紀夫から電話で依頼され、市谷本村町の市ヶ谷会館[3]で、NHK記者だった伊達宗克と共に、楯の会関係者から手紙と檄文を託され[4]、隣接する市ヶ谷駐屯地の東部方面本部総監室で起きた事件の目撃者となった。
1973年(昭和48年)にドナルド・キーンとの共著で、『悼友紀行 - 三島由紀夫の作品風土』(元はキーンと同行した紀行文、『サンデー毎日』で連載、本書がきっかけでキーンの著作訳者となった)を刊行。事件から四半世紀後に、経緯と三島との交流回想を綴った『五衰の人』を『文學界』で連載、1997年(平成9年)に新潮学芸賞を受賞した[5]。
明治の居留地横浜での夫殺しをテーマにしたミステリー形式のノンフィクション『横浜・山手の出来事』で1991年(平成3年)に日本推理作家協会賞を受賞。1986年(昭和61年)には菊池寛賞を受賞した。
保守派の評論家としても活動、『諸君!』(文藝春秋の月刊誌)で、1980年(昭和55年)1月号から最終の2009年(平成21年)6月号まで、匿名巻頭コラム「紳士と淑女」を連載。最終号で筆者であることを明かした。
『フォーサイト』(新潮社刊)などで執筆。同誌連載のコラム「クオ・ヴァディス きみはどこへいくのか?」を経て、回想記「風が時間を」は、『フォーサイト』がウェブ版に移行を経て2019年5月まで連載。
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