Loading AI tools
仙台市の街路 ウィキペディアから
広瀬通(ひろせどおり)は、宮城県仙台市青葉区にある道路である。戦後に造られた都市計画道路元寺小路川内線であり、新聞社の河北新報の企画により広瀬通と呼ばれるようになった。沿道の街路樹はイチョウである。
仙台市都心部を東西に走る幹線道路の内、広瀬通は定禅寺通と青葉通の間にある道路である。
広瀬通の西側は二層構造の仲の瀬橋を経て文教地区の川内、青葉山地区に至る。広瀬通の途中で自動車専用道路の仙台西道路への分岐があり、こちらはトンネルへ入る。仙台発着の高速バスは、この広瀬通と仙台西道路を経由して、仙台宮城インターチェンジから東北自動車道に入る路線が多い。広瀬通の東二番丁通から川内トンネル口までの区間は国道48号に指定されている。
広瀬通の東側には、元寺小路福室線が続く[1]。この道は仙台駅東第二土地区画整理事業[2] の一環として拡幅された道路で、宮城野橋(X橋)を経て仙台市東部に向かう。
広瀬通と東二番丁通の交差点は、仙台で最も多くの交通事故が起きる交差点として有名である。
江戸時代から第二次世界大戦まで、現在の広瀬通の国分町通より西側は立町、西公園通より西側は立町新丁と呼ばれており、仲の瀬橋へと繋がっていた。国分町通より東半分には特に道がなかったが、少し北にずれて、玉沢横丁(国分町 - 東一番丁)・立町通(東一番丁 - 東二番丁)と東へ続き、また北にずれて赤井横丁(東二番丁 - 東三番丁)へと繋がっていた。
1945年(昭和20年)7月の仙台空襲で焼け跡になった仙台市を戦後に復興するに際し、宮城県は元寺小路から西公園まで50メートル幅という市内最大幅の道路を新たに敷く計画を作り、11月15日に公表した[3]。これが広瀬通の原型である。仙台市による修正を経て、1946年(昭和21年)11月11日の国の戦災復興院告示で決定された計画では、50メートル道路は後の青葉通に変更になり、元寺小路川内線は36メートル幅に落ち着いた[4]。元寺小路川内線は、立町を拡幅した上で、東に直線的に延長する形で建設された。赤井横丁は元寺小路川内線の建設の影響を受けずに残ったが、それ以外の道は建設前の姿を残していない。
1947年(昭和22年)2月の締め切りで市内の新設街路の愛称が地元紙『河北新報』で公募され、投票で1位になった広瀬通に決まった[4]。1960年(昭和35年)に、街路樹をイチョウに統一した[5]。
沿道両脇は、企業の本支店が入るオフィスビルが多く並んでいるが、広瀬通と一番町が交差する「広瀬通一番町」の周辺は仙台の商業(物販・サービス)の中心地であり、ファッションビルや専門店などが軒を連ねている。この交差点の広瀬通沿いには、高速バスや仙台市営バスなどのバス停留所、タクシー乗り場、地下駐輪場があり、また、一番町四丁目商店街とぶらんどーむ一番町との間の横断歩道があるため、この交差点を先頭に広瀬通が渋滞する傾向がある。さらに、夕方以降に渋滞が起きる繁華街の国分町から渋滞が波及し、「広瀬通国分町」も混雑する。特に広瀬通の東行き(仙台駅方面)の渋滞がひどい。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.