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2006年に日本の神奈川県平塚市で発生した遺体発見事件 ウィキペディアから
平塚5遺体事件(ひらつか5いたいじけん)は、2006年(平成18年)5月1日から同月2日にかけ、神奈川県平塚市のアパートで新生児を含む計5人の遺体が見つかった事件[1]。
1984年(昭和59年)12月28日、神奈川県平塚市で6歳男児Tが自宅前で遊んでいるのを最後に行方不明となる事件が発生。母親O(当時32歳)は「買い物から帰ったらTが行方不明になっていた」と周囲に話し、捜索願を提出。Oはテレビに出演し、大々的に捜索を呼びかけたが成果はなかった。2002年頃からOは周囲に「Tは北朝鮮に拉致された」と主張するようになった。
2006年5月1日午前11時頃、Oが住んでいた神奈川県平塚市のアパートから、男性Y(Oの前夫(故人)の連れ子・当時35歳)と女性R(Oと前夫の実娘・当時19歳)(YとRは異母兄妹)の遺体を、Yの実母が発見。当初は無理心中と思われたが、捜査を進めていくうちに、翌日段ボール箱に乳児2人の遺体と男児1人の遺体が見つかり、計5人の遺体が確認されることになった。
遺体発見時、Yのすぐそばに「死にたい。Rと一緒になりたい」という内容の遺書らしきものがあった。そのため、「近親相姦の末による自殺」という筋書きが推理できないわけでもなかった。だが同時に、室内には母親Oが書いたと思われる「娘を殺してしまった」というメモが発見され、これにより事件は急展開を見せる。
同年5月3日、2006年3月以降に神奈川県平塚市のアパートから行方を晦ましていたO(当時54歳)が、Rに対する殺人容疑で逮捕される[1]。Rは2005年10月12日以降の目撃証言がなく、mixiの日記の更新も途絶えたことから、この時期に殺害されたと推測される。
10月12日以降、Rの知人がメールを送った際、Rの携帯から「入院していた」旨の返信が複数あったが、これらはOの生存偽装工作であると考えられた。残り3人の遺体もOの子供である可能性が高まり、5人の遺体は全員Oに殺害されたのではないかという疑いも持たれた。
しかし、Yに関しては遺書があったため2006年3月に自殺したと認定された。また、残り3人の遺体に関しては死後20年近く経過しているがすべてOの子供であり(乳児2遺体はRが生まれた前後に生まれている)、男児1人の遺体は1984年に捜索願が出されていた長男のTであることが判明。
この3遺体に関して母親であるOによる犯行嫌疑の側面から捜査をしたが、公訴時効の壁(殺人罪は15年・死体遺棄罪は3年)があったため、OはTと乳児2人の死に関しては刑事訴訟で裁かれることはなかった[1][注釈 1]。また、Yの死体遺棄罪については、Yの自殺前からOがアパートを出た後に立ち入っていた形跡が確認できないとして、Oの起訴はされなかった。
Oは知人らに多額の借金の返済を迫られており追い詰められた状況にあったという。いずれにせよ生き残っているのがOのみである以上、関係者の証言としてはOの証言が第一に取り上げられるという問題があった(Oには元夫と内縁の夫がいたものの、2人とも事件発覚時には死亡している。なお元夫は自然災害に巻き込まれ災害死、内縁の夫は容疑者と関わっている最中に病没)。
同年5月23日、R殺害の容疑でOは起訴される[1]。
同年8月21日、初公判でOは「自分は殺していない」と主張。
同年10月2日、第2回公判では「真犯人はYである」と主張する。
2007年(平成19年)5月21日、OはR殺害容疑で懲役17年を求刑される。
同年7月23日、横浜地方裁判所は「遺体を長期間放置し、周囲にRの生存を装うなど不自然。母親としての情愛を感じられない冷血な犯行。YにRを殺害する動機はない」として懲役12年の判決が言い渡された。
殺害を仄めかすメモが重要な証拠となって有罪となったが、動機も不審死の真相も分かっていない状況である。Oは控訴したが、2008年(平成20年)10月23日に東京高等裁判所は控訴を棄却。
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