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日本の政治家、実業家、柔道家 ウィキペディアから
小渕 光平(小淵光平、おぶち みつへい、1904年(明治37年)2月26日 - 1958年(昭和33年)8月26日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。長男は群馬県中之条町長の二代目小渕光平。次男は第84代内閣総理大臣の小渕恵三。
群馬県吾妻郡中之条町に小渕信平・きち夫妻の下に生まれる。生家は極貧を極め、小渕は尋常小学校卒業後すぐに働き始めた。19歳で小渕製糸所を創業。たゆまぬ経営努力で群馬県随一の製糸会社に成長させる。1933年(昭和8年)に社名を光山社と改名(1925年(大正14年)に碓氷社東村工場を買収、1928年(昭和3年)に光山社小渕製糸所と改称した、という説もある)。光山倉庫・光山電気工業などの他業種にも進出。現在に続く光山社グループを一代で築き上げた。
1942年(昭和17年)の、中之条町議会議員に初当選した。1944年(昭和19年)12月6日、紺綬褒章下賜[1]。1945年(昭和20年)12月11日、群馬県トラック協会の理事長に就任する。その他、群馬県製糸業協会理事、群馬柔道クラブ吾妻支部長、吾妻貨物自動車社長、北毛自動車運送社長などを歴任し、1947年(昭和22年)、第23回衆議院議員総選挙の群馬3区に日本自由党から立候補するが落選。1949年(昭和24年)、第24回衆院選の群馬3区に民主自由党から立候補し、日本初の女性代議士のひとりである最上英子を2150票差で抑えて辛くも初当選を飾るも1952年(昭和27年)の第25回衆院選で次々点に終わった。1953年(昭和28年)、第26回衆院選でまたも次々点。1955年(昭和30年)の第27回衆院選でもまた次々点。1958年(昭和33年)の第28回衆院選で自由民主党から立候補。日本社会党の武藤運十郎を辛くも振り切って国会議員に返り咲いた。だが、3ヶ月後の1958年(昭和33年)8月26日、国会からの帰路に東京大学の赤門前で突如として嘔吐した。順天堂大学医学部附属順天堂医院に運ばれたが、脳梗塞を起こして急死した。死没日をもって勲四等旭日小綬章追贈、従五位に叙される[2]。なお、息子の恵三も42年後の2000年(平成12年)に光平と同じ脳梗塞となり、同じ病院で亡くなっている。
当落 | 選挙 | 執行日 | 年齢 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 定数 | 得票順位 /候補者数 | 政党内比例順位 /政党当選者数 |
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落 | 第23回衆議院議員総選挙 | 1947年 4月25日 | 43 | 旧群馬3区 | 日本自由党 | 1万5517票 | 6.10% | 4 | 6/12 | / |
当 | 第24回衆議院議員総選挙 | 1949年 1月23日 | 44 | 旧群馬3区 | 民主自由党 | 2万7197票 | 9.82% | 4 | 4/14 | / |
落 | 第25回衆議院議員総選挙 | 1952年10月 1日 | 48 | 旧群馬3区 | 自由党 | 3万133票 | 9.41% | 4 | 6/10 | / |
落 | 第26回衆議院議員総選挙 | 1953年 4月19日 | 49 | 旧群馬3区 | 自由党 | 3万4826票 | 10.88% | 4 | 6/7 | / |
落 | 第27回衆議院議員総選挙 | 1955年 2月27日 | 50 | 旧群馬3区 | 自由党 | 3万5886票 | 11.41% | 4 | 6/6 | / |
当 | 第28回衆議院議員総選挙 | 1958年 5月22日 | 54 | 旧群馬3区 | 自由民主党 | 4万9762票 | 15.47% | 4 | 4/7 | / |
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